風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ドストエフスキー『罪と罰』 の検索結果:

説教「祝福を携え行く」(2023年11月の『聴く』)

「祝福を携え行く」(創世記 47:5~12)○○○○○先生説教その1 11月号の「聴く」その2 「祝福を携え行く」(創世記 47:5~12)○○○○○先生説教その2 myrtus77.hatenablog.com 悲しみと涙を味わい尽くしたところで、万人に哀れみをたれ、万人を理解してくださる方を見出すのだ。 そしてその時、私たちの目は、悲しみの世から「わたしはすでに一度おまえを赦した」と言ってくださる方へと転じていくのである。 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない…

今日のお説教、「福音には、神の義が啓示されている」(ローマ1:17)から ー ドストエフスキー『罪と罰』39

今日のお説教「恵みの再発見」(ローマの信徒への手紙1:16~17)より キリストの十字架によって示された神の愛が悔い改めに導くのである。…。信仰も神の賜物である。 今日のお説教では、修道士時代にルターが師から教えられたこととして「本当の悔い改めは神の愛から始まる」という言葉をあげておられた。 myrtus77.hatenablog.com ここの部分を読んで、説教の中でたびたび聞いてきた「キリストの前に立つことによって、人は初めて自分の罪を知ることができるのです」という言葉を…

選ぶということは、Aを愛しBを憎むということ

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカによる福音書14:26) 「十字架のほかに」(ルカによる福音書14章25~27節) (1:29~)ここで非情に私たちにとって厳しい言葉「憎む」という言葉が記されています。これは多くの注解書において、これはヘブル語独特の言い回しなんだ、と。AとBと二つの項目があって、Aを選ぶときに、ヘブル語ではAを愛しBを憎む、という風に遣…

どうにかして伝えたいと思うこと。

インマヌエル、我らと共におられる神。 https://t.co/AvoC68VZye — メロメロピー77 (@syodainekosuke) 2021年9月22日 神戸の震災の一月か二月後だったかに教会関係の炊き出しのボランティアに参加した。 夫は休暇を取って福島に帰る前に、小さかった娘を連れて駅まで見送りに来た。その私を見送った後、娘は夫に「神さまはお母さんと一緒に行ってしまったら、○○とは一緒に居てくれないの?」と尋ねたと言う。 もちろん応えは聞かなくとも分かっている。…

「罪の奴隷から義の奴隷へ」(ローマの信徒への手紙6:15~23)

昨日は引退された先生の応援によって礼拝が守られた。 以下に、書き起こした説教原稿を掲載させて頂く。 「罪の奴隷から義の奴隷へ」(ローマの信徒への手紙6:15~23) イエス・キリストによって救われた信仰者とはどのような存在かということを語っている箇所である。別の言い方をすれば、信仰者でない人とはどういう存在かを間接的ながら語っていると言ってよいであろう。そして、この手紙の著者パウロは、わたしたちに二者択一、あれかこれかの選択を迫っているのである。 この世に起こることは、大方は…

「わたしに従いなさい」(マルコによる福音書2:13~17)

「わたしに従いなさい」 2023年1月22日(日) 降誕節後第4主日 聖書箇所:マルコによる福音書 2章13節~17節 イエスは家を出て,再び湖のほとりに出て行かれました。すると群衆が皆そばに集まって来たので,イエスはそこでも人々に教えられました。家でも外でも,イエスは集まってくる人々に神の国の福音を語り,教えられました。それは神と共に生きる道でした。 そして通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて,「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上…

「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる〜」(コリントの信徒への手紙二1:5)

ユースの会の友人が急逝して悲しんでいる娘に、御言葉を分かち合いたいと共通の友人から第二コリントの言葉が送られてきた。 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリス…

ミャーさん達は・・。(追記した💢)

日曜日、牧師館の近くで猫が鳴いているので庭の内側にいるんじゃないかと言うので見てみたが、いなかった。 月曜日、リビングのすぐ外で鳴いているように思えるので、外に出てみるがいない。 鳴き声の方にそぉっと近づいて、ふと溝の中を見ると、黒い子猫がいる。側溝にはまり込んで出られなくなったのだろうか?と思い、いったん家に入って、もう一度見に行くと、クリクリの目をしてこちらを見上げている。変だなぁと思って見ていると、クリクリの目の方が動いたら、もう一匹小さいのが姿を現した。こちらの方が弱…

どなたかがアクセスして来てくださった過去記事を見て、顔から火が出る ー ドストエフスキー『罪と罰』

myrtus77.hatenablog.comしかしソーニャは、私たち人間の期待に添ったキリスト像のように思える。そして、ラスコーリニコフが人殺しだという設定もいけない。そういったところでしか罪を描き出せないというところが、私には気に入らないのだ。読者のほとんどは人殺しはしていないだろう。「私は人殺しなどしていない」ー すると、罪の自覚のないままに赦しだけを享受することになる。そういう意味でも、やはり、ドストエフスキー作品は『罪と罰』より『カラマーゾフの兄弟』だろう、と私は思…

夫の本 ー『絶対無と場所 鈴木禅学と西田哲学』(秋月龍珉=著)

…覚」とは何だろうか。何に目覚めて生きるのであろうか?そこには「愛する」という一事が抜け落ちているように思えた。 ここで、ソーニャを取り上げずにはこれ以上話は進まないだろうというところに行き着いてしまったという気がする。 この続きは、ドストエフスキー『罪と罰』で書くことになるだろうか? 昨日今日でこのブログにアクセスしてきてくださった中に、自分でも書いたことを忘れていたこんな過去記事があった。関係ありそうなので、リンクしておこう。 myrtus77.hatenablog.com

先ずは西田幾多郎から(礼拝後の研修会で頭の中がヒートアップ!)

礼拝後に行われた『日本伝道のいま、これから』という講義のレジメの一部。 昼食前の一時間位の中で、ソシュールからレヴィ=ストロースまでポストモダンについて取り上げ、分かりやすく解説して、しかも大事な点をきちんと伝えるから、この先生の頭の中はどうなっているんだろ!と思ってしまった。 興味深い内容が満載だったので、その後の私の頭の中は、エキサイト、ヒートアップ。 ブログで吐き出さないと治まりそうにない。 先ずは西田幾多郎から。 西田が滝沢克己にカールバルトに師事することを勧めたとい…

お聴きしながら、礼拝中に号泣した説教

myrtus77.hatenablog.com『聴く』3、4月号は、他教派の引退教師によるお説教を掲載させて頂きました。 「キリストの前に近づいて」(マタイによる福音書15:21〜28) (略) 口語訳では、「女は近寄り」と訳しています。引き返すどころか、イエスさまにもっと近づくのです。「主よ、どうかお助けください。」直訳すると、「わたしを助けてください」です。「娘を助けてください」というべきなのに、「わたしを助けてください」といっています。「助ける」という言葉は、「悲鳴を上…

牧会のための覚書2(岡田尊司=著『パーソナリティ障害』から)

現在、境界性パーソナリティ障害は、ずっと狭い意味で定義されているが、かつての名残は、今もすっかりなくなったわけではなく、「境界性(ボーダーライン)」と診断されているパーソナリティ障害には、他のタイプのパーソナリティ障害が含まれていることもよくある。治療者によっては、対処が困難なパーソナリティ障害を、何でもかんでも、「境界性」と診断するような乱用もあり、さらに混乱を深めている。 専門家でさえ、そういう状況である。 (略) 接し方のコツ 変わらないことが最大の支え (略) よくあ…

「地は混沌として、闇が深淵の面にあり」(創世記1:2)

創世記1章1−5節 「光あれ」礼拝説教 (抜粋) 1節の「初めに、神は天地を創造された」という宣言の後、2節以降に具体的な創造の御業が述べられています。まず、2節の言葉「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とありますが、これは神さまが最初に創造された天地の様子です。混沌という言葉は旧約聖書において詩編、イザヤ書、エレミヤ書で用いられています。特にエレミヤ書4章23節に「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし空には光がなかった」とあり、その次に「わたし…

自覚することの難しい「無自覚の罪」 ー ドストエフスキー『罪と罰』から

自分の罪というのはそれぞれに与えられる出来事を通して自覚されるものだろうと私は考えていて、私自身の「罪」についてはこれまでにいくつかの出来事を通して自覚しているのだが、ここでは、自覚することの難しい「無自覚の罪」について考えてみたいと思う。 ドストエフスキーの『罪と罰』のタイトルがどういったことを表そうとしているのか、実のところ私はまだ理解できていない。 「罪」に対して「罰」がくだるというような単純なものではないだろう、と漠然と思いつつ、よく分からないというところで留まってい…

人生の通奏低音は『苦しみ』!

最近、毎週お聴きしている教会の説教で、 「イエスは処女マリアから生まれ苦しんだ、と。楽しいこともあれば良いこともありますけれども、私たち罪の世の中の罪人の人生の通奏低音は、一番基本に流れているものは、『苦しみ』なんですね。」(https://drive.google.com/file/d/1dc-flE5kNEtsApSjAdQYYTewxS5uSPQF/view) と語られて、 あぁ、ほんとうにそうだ、と思った。 myrtus77.hatenablog.com myrtus…

愛は・・・。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 2022年3月6日(日) 受難節第1主日 聖書箇所:ルカによる福音書 23章39節~43節 (略) 彼は民の救いのために命がけでローマに反逆します。しかし、民がキリストだと噂するイエスは、自分たちのような行動はしません。けれど、イエスのもとには遊女や取税人といった、人々から軽蔑されている「地の民」と呼ばれていた人々が集い、イエスは彼らと食事を共にします。彼の心は揺さぶられます。自分たちとは全く違うイエスの行動は、何なのか。自分たちこそ民の…

偶像崇拝と娼婦とソーニャ ー ドストエフスキー『罪と罰』38

…は、踏み留まる ー ドストエフスキー『罪と罰』37」で引用したラスコーリニコフのソーニャについての考察は、以下へと続いていく。 『彼女には三つの道がある』と彼は考えた。『運河に身投げするか、精神病院にはいるか、でなければ・・・・・でなければ、いっそ淫蕩に身をゆだねて、理性を麻痺させ、心を石にかえてしまうことだ』最後の想像は、彼にとってもっともいまわしいものだった。しかし彼はすでに懐疑派だった。それに若くて、抽象的で、したがって残酷だった。となれば最後の道、つまり淫蕩がもっとも…

愛は、踏み留まる ー ドストエフスキー『罪と罰』37

「ドストエフスキー『罪と罰』24」で、私は、「愛は、踏み越える」、と書いた。 しかしここでは、愛は「踏み留まる」のだ、と書かねばならない。 しかし、それにしても、こうした性格をもち、まがりなりにも教育を受けているソーニャが、けっしてこのままの状態にとどまっていられないだろうことも、彼には明らかだった。やはり彼は、ひとつの疑問をふっきれない ーー なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか…

ソーニャと娼婦ラハブ ー ドストエフスキー『罪と罰』36

二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は…

「苦しむ人を救いによって輝かせる」(詩編149:4 聖書協会共同訳)

最後の祈り会でしたこの説教を読み返していた。 しばらく前に、山上の説教の中に「苦しむ人」について語られていただろうか?と思い、新しい訳の聖書も見てみたが、なかった。しかし、新しい訳の詩編では、「苦しむ人を」と訳されていると言っている。 主はご自分の民を喜びとし、苦しむ人を救いによって輝かせる。(詩編149:4 聖書協会共同訳) 山上の説教は昔から、聴いても聴いても分からないと思っていた。なぜ、貧しい人が幸いなのか?なぜ、悲しむ人が幸いなのか?理解できない、と。 myrtus7…

愛と選びについて(米津玄師の歌から考えた)

瞬く間に落っこちた 淡い靄の中で 君じゃなきゃいけないと ただ強く思うだけ(「まちがいさがし」より) これが愛じゃなければなんと呼ぶのか僕は知らなかった呼べよ 恐れるままに花の名前を君じゃなきゃ駄目だと(「馬と鹿」より) 触れていたい 揺れていたい 君じゃないといけない この惑い 今だんだん恋になっていく ときめいていく思いがけぬ とんだランデブー (略) 触れていたい 揺れていたい 君じゃないといけない この惑い 今だんだん愛になっていく 騒めいていく鉢合わせの とんだラン…

「キリストの苦しみのなお足りないところを」ー ドストエフスキー『罪と罰』

…「ソーニャを・・ー ドストエフスキー『罪と罰』」で私は、「ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描いていると考えて」きた。「しかし、ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描きながら、一方でキリストではない私たちと等しい人間としても描いているのではないかと思い始めていた」と書いた。 そして、さらに、「さて、このように考えると、「受イエス・キリスト」という出来事は私たちにも起こりうるということである」とも書いたのだった。 で、聞いておると、私のソーニャが(あれは口答えをし…

自分を守ろう守ろうとばかりする者の口から ー ドストエフスキー『罪と罰』

ある教会に電話をすると、「この電話は迷惑電話防止のために録音をしています」と設定された声が先ず聞こえてきた。 教会で、迷惑電話防止のために録音をするというのは、どういうことだろうか? 病む人の心の悲鳴響かせて非通知電話鳴る午前4時 睡眠は確保しなくてはいけないから、夜間の電話は鳴らないように設定するということはある。しかし教会という所は、ちょっと話を聞いて欲しいとやってきた人が2時間3時間話して最終的にお金の無心だったというようなことが一度や二度でなくある場所なのである。そう…

ソーニャを・・ー ドストエフスキー『罪と罰』

…「ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』」で、「カチェーリナについてのこの洞察、理解と受容、これはやはりソーニャをキリストとして描いているか、あるいはキリストに憑依された人間として描いているかのどちらかとしか言いようがないだろう」と書いた。 また、「「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26」では、「ここでは、ラスコーリニコフがソーニャのことを「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」だと考えていたということが言われているのだが、ラスコーリニコフの捉えがそのままドス…

頂いたお年賀状を読んでいて・・ー ドストエフスキー『罪と罰』

…だことがあった。 「ドストエフスキー『罪と罰』32 」で、共産主義的な新思想の持ち主レベジャートニコフについて書いたのだが、この登場人物も、スヴィドリガイロフが自死の前にソーニャを解放したと同じようにソーニャを助けたということができる。 つまりドストエフスキーは、共産主義的な思想の持ち主を批判的に描きながら、その人物にキリストを助けさせていると言える。ソーニャがキリストとして描かれているとするなら、だが。 ここにも「踏み越え」ということが表れていると私には思える。あらゆる境界…

『聴く』(2020年12月号)ー ドストエフスキー『罪と罰』

江川卓=訳、ドストエフスキー=作『罪と罰』(岩波文庫)について 自分の不幸に囚われている者は、周りの人間は皆自分より幸せに生きていると思い込んでいる。 自分の苦しみにばかり捕らわれている者は、肉体を持ってこの世に来られた神の子キリストの苦しみに思い至ることはないだろう、たとえキリスト教徒であったとしても。 自分の苦しみにばかり捕らわれている者にとっては、その苦しみは絵空事でしかない。

米津玄師の『カムパネルラ』と、私の「青き天鵞絨」

… ユダは死んだ。 「ドストエフスキー『罪と罰』22」で私は、「キリストはユダが…。というより、イエスを裏切って生き続けていくことは困難だということを分かっておられたのだと思う」と書いた。 そう考えるなら、なお生きてゆくということがどれほど過酷なことであるかが分かるように思う。 あの人の言う通り 私の手は汚れてゆくのでしょう 追い風に翻り わたしはまだ生きてゆくでしょう 『カムパネルラ』 『沈黙』のキチジローを思い浮かべた。 黄昏を振り返り その度 過ちを知るでしょう 『カムパ…

ソーニャ(ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ) − ドストエフスキー『罪と罰』35

智恵や叡智を表す「ソフィア(Sofia)」は、ロシア語では「София(Sofiya)」と表記するようである。そのためか、岩波文庫の江川訳『罪と罰』では、ソーニャを「ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ」としている。 お察しのとおり、ソーニャは、教育はまるで受けませんでした。四年ほど前でしたか、私が地理と万国史を教えにかかったんですが、私自身だいぶ怪しいうえにちゃんとした参考書もなかったりで。(岩波文庫『罪と罰 上』p40) たんすの上に一冊の本がのっていた。そのそばを行…

スヴィドリガイロフがソーニャに説教するというのは − ドストエフスキー『罪と罰』34

あなたにあげるのはあのひとにあげるのと同じことなんです。それにあなたは、リッペヴェフゼリ夫人に借金を払うと約束された、私は聞きましたよ。どうして、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたはそんなふうに考えもなく、そんな約束だの義務だのを背負いこまれるのです?あのドイツ女に借金があったのはカチェリーナ・イワーノヴナで、あなたじゃない。あなたはあんなドイツ女なんぞ、知ったことじゃなかったんです。そんなふうじゃ、世の中を渡っていけませんよ。(岩波文庫『罪と罰 下』p306~307) ここは…