2:4−5の言葉の背景は、古代イスラエルの門の法廷で行われた手続き。
被告は妻、イスラエル。告発したものは夫たる主。
母、イスラエルを告発することを、子である民の忠実な者たちに要求する。
原告の意図は、離婚するためではなく、和解するため、妻が売春と不貞とを止めるように望んでいる。
夫はまだ、この結婚が救われることを希望しており、二人の関係が求愛の時期にそうであった状態になることを望んでいる。
イスラエルは無責任な母のように、不義の妻のように振る舞っている。
彼女は、客が自分のところに来るのを待っている売春婦よりももっと悪く、愛人を追いかけている。
イスラエルは貪るようにバアル礼拝を求め、熱心にカナンの豊穣の祭儀に参加していた。
イスラエルは、自分の歴史を通じて、エジプトにおける奴隷状態から彼らを救い、また荒野において彼らを支え、新しい土地で彼らを祝福した神を主として知った。申命記26:5−18.
しかし、今、イスラエルは物的祝福をカナンの豊穣の神の祝福と考えている。
彼女は知らないのだ。
不義のイスラエルは背信の代価を払わねばならない。だが、結婚は救われる。
葡萄園が再び返される。苦悩の谷が希望の門に変えられる。
神の業によって暗闇から驚くべき光の中に招き入れられた。
この神の愛が私たちを救う。
ホセア書を語っていた頃は中会の書記をしていて忙しい時期だったかと思う。説教原稿でなくメモ書きが多い。
厳しい裁きの言葉が語られる箇所なのだが、最後の言葉が活きている。
「この神の愛が私たちを救う。」
「彼女は知らないのだ」ー 何を知らないのか?
「不義のイスラエルは背信の代価を払わねばならない」ということを。
そして「神の業によって暗闇から驚くべき光の中に招き入れられた」ということを。
ここで語られているのは、キリストの十字架の死による贖いである。
そして、
「この神の愛が私たちを救う。」
この神の愛は2000年を生きる私たちの上にも及んでいる。