風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神は訴えられる。今に至るまで、投げ出すことなく訴えられる」(説教のためのメモ書きから ホセア書4:1~4)

イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。

ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。 

それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、野の獣も空の鳥も共に衰え、海の魚さえも絶えはてる。

しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ、わたしの争うのは、あなたと争うのだ。(ホセア書4:1~4)

 

からだに異変があるとき、特に痛みがあるとき、私たちは医者のもとに赴く。そして医者の言葉を聞き、それに従う。

しかし、私たちはどういう訳か魂の異変には余り気づかない。

それは、魂の異変に気づかせないのが罪の本質であって、罪が神を疎んじて、自分自身で善悪を定めるところに本質があるため、この世的に自分に益をもたらそうと罪は働く。そのこの世的な益に惑わされて、あるいは「これこそが本当に私たちにとって益となるものだ」と自分で確信しているものに振り回されて、私たちは自分の罪に気づかない。

罪に気づかないどころか、罪を良いもの、大事なものとさえ考えてしまう。

だから、しばしば神が語られる罪のことを無用のもの、疎ましいものと考え、神の語られる言葉に耳を傾けなくなる。

 

しかし、神の言葉以外に私たちは自分の罪を知ることができない。

そして、罪をそのままにしておいてもたらされるものは、孤独と滅びなのです。

 

だから、主は争われる。— 主は訴えられる。告訴する。告発する。

神が言ってくださるのでなければ、罪人は自分の罪に気づくことができない。

 

神の訴えは、3つの否定的な告発で始まる。

第1は、「真実」がないこと。これは、神に対する信頼の欠如を指している。

第2に、「愛情」がないこと。これは、神に対する愛や忠実、具体的な良い行いが欠けていることを指す。

第3に、一番根本的な事柄として、「神を知ること」が欠けている。

 

形式的には、神礼拝は守られており、献げ物もたくさん献げられていた。しかし、形の上でどれほど宗教的に見えても、日々生きることにおいて神に従うことは忘れ去られていた。日々の生活の中で神は不用のものとなっていた。

その結果、7つの積極的な告発を受けることになる。これは十戒に対する違反。神の戒めの破壊行為である。

 

神に対する信頼の欠如は、人間同士の信頼の破壊を生み出し、神に対する愛情の欠如は、お互いに対する愛情を失わせた。そして、神を知ることの欠如は、神に対する畏れを失わせ、人間の罪に対する歯止めを失わせた。

 

神からこのような指摘を受けながら、ホセアの言葉が受け入れられなかったのは、社会に豊かさがあったから。豊かさの中にある者は、その豊かさの中で満足し、しえたげられている人、苦しみの中にある人を顧みられなくなってしまっていた。

神殿は賑わっていた。しかし・・

 

今日、私たちを取り囲む状況も同じ。

神の言葉を侮って、罪に耽って歩むその歩みの行き着く先は、被造物全体の苦しみ。人間の罪故にあらゆるものが苦しみ、うめく。地を治めるように務めを与えられた人間が、神を忘れ罪に耽けるとき、自分たちを取り囲むすべてのものがその罪故にうめき苦しむ。

そして、その罪が露になってきたときには、もはやどうしていいのか分からないくらいの状況になって、自分では罪の償いができなくなってしまっている。

 

だから、神は訴えられる。今に至るまで、諦めることなく、投げ出すことなく訴えられる。私たちに必要な救いのすべてを用意して語られる。

神の言葉を聞いて絶望してしまうことのないように、イエス・キリストまで遣わして、私たちが神の言葉を聞いて立ち返ることができるようにしてくださっている。

私たちの救いは、この神のもとにこそある。

この神の言葉に心開いていく時、罪のただ中に神の救いの光が差し込んでくる。

 

だれかを指さして、責めるようなことをするな。

見なさい、祭司よ。

わたしの指はあなたをさしている。(ホセア書4:4 リビングバイブル)

 

 

 

 

すぐ目の前にあるお店で、

マーガレットはもう終わりだからと、ガーベラの分の100円で買ってきた。

でも、

マーガレットが

活きている。