風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「私はそこにいる」とは、どこに?

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私はゴッホにどこで出会ったのだったろうか?と考えていた。

好きだった絵は?

オーヴェールの教会だ。

この絵を見ると、私の生まれ育った紀南地方そのままだと感じたのだった。紀南地方は雨の多い所だが、同時にこんな陽光の青い空を持っている、と。

そしてこの教会は、私が中学の頃に初めて足を踏み入れた教会そのものなのだった。

かつて、心が弱っている時に紀南地方の教会から説教をして欲しいと頼まれ、「あんな明るい所へ行って自分が何を語ることがあるだろうと思いながら行ってみると、そこには病のために何年も寝たきりでいる奥さんを抱えた人がいて・・」と話された牧師がいる。

明るい、不幸などどこにあるだろうかと思えるようなところに・・・。

 

憧れて止まないものと、この世の現実の暗さが渾然としている。

教会とは、そういうところだ。

しかしキリストは言うだろう、「私はそこにいる」と。

 

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17:21)

 

ゴッホの絵に端を発した思索だった。

しかし自分の書いた文章を見て、改めて考えた。

「私はそこにいる」とは、どこだろう?と。

 

憧れて止まないものと、この世の現実の暗さが渾然としている」、「教会とは、そういうところだ」と言っている。

そして、「「私はそこにいる」とキリストは言うだろう」と続く。

しかし、「教会に私はいる」と言っているのではないのだと思ったのだった。

 

憧れて止まないものと、この世の現実の暗さが渾然としている」ー そこに、居てくださるのだ。

 

 

光はやみの中に輝いている。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

(ヨハネによる福音書1:5、9、14 口語訳)

 

 

 

 

晩夏落日、風に吹かれて泣く人よ

 

 

 

 

 

 

 

 

ビタミンDとビタミンKと骨軟化症と尿路結石

 ビタミンDの摂取が不足すると、小腸でのカルシウム吸収量が減少し、さらに体内でのカルシウム利用度が低下する。その結果、小児ではくる病(成長障害、O脚などの骨変形がおもな症状)、成人では骨軟化症(筋力低下や骨の痛み、骨変形がおもな症状)引き起こされる。ビタミンD欠乏が長期にわたって続くと、骨粗しょう症のリスクが高まる。これは、ビタミンD欠乏により体内のカルシウムが不足すると、骨吸収が促進されて骨形成を上回り、骨密度が低下することによる。

 過剰摂取では、高カルシウム血症、腎障害、軟組織の石灰化障害などが起こる。乳児では、多量のビタミンD摂取によって成長遅延の可能性が指摘されている。(川端輝江=編著「しっかり学べる!栄養学」)

 

ここに記されているビタミンDの不足と過剰は結局同じような症状に至るように思える。

乳児、小児では不足で「成長障害」、過剰で「成長遅延」。微妙に言葉は違うが同じようなことを言っている。

成人では、不足で「骨軟化症」、過剰で「軟組織の石灰化障害」。これも結局、場所が違うというだけで「石灰化障害」という点では同じことではないだろうか?

 

カルシウムには、摂取する量が足りないとホルモンが働いて血中カルシウム濃度が上昇するというカルシウム・パラドックスという現象が起こるとも言われている。

 

また、塩などに含有されているカルシウムは水に溶けてイオン化し、尿中に排出されやすく、結果的に欠乏するということも起こりうるようだ。

そして、カルシウムの摂取にはマグネシウムとの摂取比が深く関わる。

 

札幌時代、カルシウムの多い岩塩だけを料理に使っていた。

その頃夫は尿管結石になり、私は踵の骨の変性で痛くて歩くのが辛かった。

つまり、カルシウムが吸収されず、夫は高カルシウム血症から尿管結石となり、私は骨の石灰化障害で骨軟化症になったということだったと考えられる。

 

 

以下は、新しい情報。

 

 

ビタミンKは骨の形成に関与している。

 

また、骨芽細胞でのコラーゲンの形成にはビタミンCや銅も関係すると思われる。

リン酸や石灰化との関係ではアルカリホスファターゼや酸性ホスファターゼと関わって亜鉛や銅も関連してくると考えられる。

 

一緒に働く栄養素間のバランスを取ることが大事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

回顧 ー《種まく人》

この時代のパレスチナでの種蒔きは日本で私たちが見ているものとはかなり違っています。まず畝を作らず、耕す前の畑地に農夫は直接、麦の種を撒き散らすということです。風に乗って、種は畑ばかりでなく周囲の道路上や石地の土地や茨の間にも落ちるのです。そして、種を蒔いた後で2頭の牛に引かせた犂で畑を耕すのです。(9月6日の説教「実を結ぶ神の言葉」より)

 

ゴッホの「種まく人」を思い浮かべ、写真に撮って載せたいと思ったが、見当たらない。ピカソもムンクもとってあるのにゴッホがないはずはないと思ったが、のめり込んだものほどもう良いと思って捨てた可能性もあるだろうか?と思ったり・・。

これは、物置部屋を片付けなさいという神様からの思し召しかもしれない。

 

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憧れて止まないものと、この世の現実の暗さが渾然としている。

教会とは、そういうところだ。

しかしキリストは言うだろう、「私はそこにいる」と。

 

 

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さて、今回の本題です。ゴッホ展で僕が一番気に入っている《種まく人》ですが、見るほどに不思議に思えて来る。いったい農夫は何の「種」を播いているのか?と。左のミレーのばあい、播いているのは「小麦」という解釈でいいでしょう。バルビゾンの村での写生がもとでしょうが、季節は当然、秋。秋に播いて春に収穫するのが小麦です。冷涼なヨーロッパの冬にしっかり育って、一粒がそれこそ聖書にもあるように何十倍にもなって実るのですから、これほど有り難い穀物はない。                          

農夫はフランスのうねる大地で、丘の上だけ光が残る秋の夕暮れに、まだ種播きを止めません。

 

「種まく人」の画像がないかと探していると、こんな素敵なブログに行き当たった。

そうそう、ゴッホはミレーに影響を受けていたんだった。

このブログに掲載されているミレーの絵の方が勢いを感じる。

そういえば、小学生の頃、小学校に絵画の複製写真を売りに来ていて、「晩鐘」を買って持っていた。

あれは何だったんだろう?公立の小学校に絵の複製写真を売りに来るなんて・・?

色々思い出される・・。

 

 

artoftheworld.jp

ゴッホはそこに福音書の「神の言葉の種蒔く人」の聖なるイメージを重ねていた。おそらくそれは伝道師を志した自らの姿でもあったのだろう。

 

 

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12:24)

 

 

 

数年前、教会の庭に執事が植えられたこの藤袴も、小さい種があちこちに飛んで花を咲かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな」(イザヤ書6:9)

主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ書6:9、10 新共同訳)

 

ふと思った。ここもローマの信徒への手紙11章32節につながるのではないか、と。

 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。(ローマの信徒への手紙11:32 新共同訳)

 

 

 

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。」(マルコによる福音書4:10〜12 新共同訳)

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11節の後半で、「外の人々には、すべてがたとえで示される」とありますが、これは、イエスに従わない人には教えないというのではありません。イエスはあらゆる人々の前で語られます。自分を憎み、殺そうとする者たちにさえ、お語りになられました。それでもたとえでしか受け取れないというのは、神の国とその秘密を覆ってしまう、罪がいかに頑なで、大きいのかが表われています。(マルコによる福音書4:10〜12からの説教より)

 

今回の説教原稿はメモ風で、語りかけるようなものではなかったので、長老が前後を随分補って下さった。

「「見れども視えず」の「見れども」の見るは,見学するの「見」という字が、「視えず」は、視力検査の「視」という字が用いられています。」ここなども、原稿にはなかった。

最後の「そして、神が与えた使命である、今は外側にいる人たちを内側に招き入れる務めを、この地で果たしていきたいと思います。」も長老の言葉。

 

12節の最後は、口語訳も聖書協会共同訳も「赦されることがない』ためである」となっていて、新共同訳のように「…ようになる…」はない。

 

それにしても、この言葉達は、「酷い!」と思わされる。

 

田川建三訳では、「彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らがたちもどって来て、赦されることがないためである」となっている。

この部分の註を少し引用してみる。

イェレミアスの解釈は、こちらについては、もっとひどい。…。「…するため、そして…しないため」と並列しているだけのことであって、それ以外の意味はとても考えられない。ところがイェレミアスは、これは「…しないため」ではなく、「…しないとすれば」という条件文の意味だと言う(…「彼らがたちもどって来て、赦されるのでないとすれば、彼らはイエスの譬えを理解することができない」)。こちらはますます言語学的に何の根拠もない。ただただ、原文の意味が自分たちの護教論にとって都合が悪いから改竄してやろうというえげつない精神の表現でしかない。いかに神学者の詭弁とはいえ、これは本当にひどすぎる。(田川建三訳著「新約聖書 訳と註1マルコ福音書4章12節)

 ^0^!

 

 

わたしはわたしを求めなかった者に
問われることを喜び、
わたしを尋ねなかった者に
見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。(イザヤ書65:1 口語訳)

 

 

 

今日の教会の玄関のお花。

 

こちらは、

小さいの。



 

 

 

 

 

「私はいる、という者」と、「臨在の幕屋」と、「私だ」

神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」 (出エジプト記3:14 聖書協会共同訳)

 

 主はモーセとアロンに仰せになった。

 イスラエルの人々は、それぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営する。臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。 (民数記2:1、2 新共同訳)

 

 主はモーセに仰せになった。

 レビ族を前に進ませ、祭司アロンの前に立たせ、彼に仕えさせなさい。彼らはアロンと共同体のために臨在の幕屋を警護し、幕屋の仕事をする。 (民数記3:5、6、7 新共同訳)

 

まくや 幕屋

モーセがシナイにおいて神から命ぜられて作った聖なる天幕。…。それは神ヤーウェの顕現の場所であり、ヤーウェがイスラエルの間に住まわれることの表象であった。それゆえ「臨在の幕屋」(出33:7、民11:16、17:7、申31:14)…とも呼ばれた。(「新共同訳聖書聖書辞典」新教出版社)

 

そして彼らに言った、「あなた方は下からの者だが、私は上からだ。あなた方は此の世からの者であるが、私は此の世からではない。それであなた方に、あなた方はみずからの罪のうちに死ぬ、と申し上げたのだ。もしもあなた方が、私だ、ということを信じないのであれば、あなた方はみずからの罪のうちに死ぬのである」。…。彼らは、イエスが彼らに父のことを言っている、ということがわからなかったのだ。それで彼らにイエスが言った、「あなた方が人の子を上げる時に、その時になったら、私だ、ということを認識するだろう。(田川建三訳著「新約聖書訳と註5ヨハネ福音書より8:23、24、27、28)

 

田川建三訳のこの部分の「私だ」についての註はとても長いのだが、以下に、ほんの一節だけ引用してみる。

 

だいたいしかし、旧約の以上の箇所は神について述べている箇所である。万が一これらの箇所とヨハネ福音書のこの箇所が同じ神の「名前」を指すという説が通ると仮定しても(絶対にありえないが)、その場合はこの著者は、イエスこそ絶対者、唯一の神、天地万物の創造者だ、と言っていることになってしまう。まさかね。

 

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いつものように夫が買ってきた本を先にちらちら読んでいる。田川建三ほか『はじめて読む聖書』(新潮新書)。この中でもやはり面白いと思うのは「神を信じないクリスチャン」というタイトルのついている田川建三氏のところである。

 

 

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 「あなたは、いったいどなたです?」とシャスタはたずねました。

 「わたしは、わたしだ。」その声は、たいそう深く低い声でいったので、地面がふるえました。そしてつぎに、「わたしだよ。」とすんだ明るい大声でくりかえしました。そしてさらに、三度めに、「わたしさ。」と、ほとんどききとりにくいほどやわらかく、しかも木の葉をさらさらとならして、まわりじゅうからきこえてくるようにささやくのでした。(C.S.ルイス=作、瀬田貞二=訳『馬と少年』(岩波少年文庫)より)

 

 

わたしはわたしを求めなかった者に

問われることを喜び、

わたしを尋ねなかった者に

見いだされることを喜んだ。

わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、

「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。(イザヤ書65:1 口語訳) 

 

 

あなたが、あなたの民を「臨在の幕屋」の警護にたてられ、ご自身の存在を全ての民に知らしめてこられたので、あなたから遠く離れた私もあなたのことを知ることが出来た。

 

 

 

聖書の元々のヘブライ語では「私はいる」という意味を表すもののようだから、ちょっと使い方を間違えているように思う。

「私は私よ、人になんと言われようと好きにするわ」という意味ではなくて、存在を表す言葉だから。

 

 

 

 

 

 

 

「涙に意味」(8月30日の礼拝説教より)

「涙に意味」

 2026年8月30日  聖霊降臨後第14主日  

聖書箇所:ホセア書       14章 1節~ 8節

     ルカによる福音書    7章36節~50節

 

 今日は「涙に意味」と題して、主として新約聖書ルカによる福音書第9章36~50節からお話しいたします。わたしが先週参加した説教塾トレーニングセミナーでの課題説教でした。

 ある日、一人のファリサイ派の人シモンが主イエスに一緒に食事をしてほしいと願ったので、主はその家に入って食事の席に着かれました。とはいえ、この教会の一階ロビーの壁にかかっているレオナルド・ダ・ビンチによる「最後の晩餐」の複製画を想像すると読み方を間違います。そう言いますのは古代ヘレニズム様式の正式な午餐は現在のスタイルとはかなり違っていたからです。食事の場所には四辺の建物に囲われた正方形の中庭がよく用いられたそうです。中央に置かれた低いテーブル上に置かれた器に盛られた御馳走に手が届くように、出席者たちは頭を中央に向け、その低いテーブルに対して放射状に並べた長椅子に左半身を下にして横たわりました。招かれた人々は話しながら食べ物を右手で取って口に運びました。そして食事の会場には外部から人が来て、出席者の話を聞くことが許されていました。珍しい客人からめったに聞けない貴重な話を聞ける機会でした。

 この町に一人の罪深い女性がいました。どう罪深いのかは記されていません。彼女は主イエスがファリサイ派の人シモンの家に入って食事の席に着いておられるのを知りました。そこで彼女は香油の入った石膏の壺を持参して、後ろから主イエスの足下に近づき、泣きながらその両足を涙でぬらし始め、髪をほどいて自分の髪の毛で拭い、主の足に接吻しました。これは常軌を逸した過激な振る舞いだったと思いますが、主はこれを止めず、されるがままにしていらっしゃいました。彼女は洗礼者ヨハネの洗礼を受けた人だという説が昔からあるようですから、悔い改めて神の赦しを待ち望んでいたのかも知れません。また、主イエスはルカによる福音書第5章32節で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるためである」とありますが、どこかでそれに類したことをおっしゃったのを聞いたのかも知れません。主を招待したファリサイ派のシモンは彼女の行いを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女性がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女性なのに」と思いました。すると、主イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは「先生、おっしゃってください」と言いました。主イエスはお話しになりました。「ある金貸しから、二人の人がお金を借りていました。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンでした。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやりました。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。主は、「その通りだ」と言われました。ここで金貸しに喩えられているのは面白いことに主御自身です。そして、一デナリを当時のローマの兵士の日当だった額で、現代の日本円に換算して一万円だとすると、五百デナリオンは五百万円、五十デナリオンは五十万円に当たります。主は女性の方を振り向いて、シモンにおっしゃいました。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に高価な香油まで塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、主は女性に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めました。主は女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。

 さて、主のなさった喩え話はどういう意味だったのでしょうか。五百デナリオンの借金を帳消しにしてもらったのはこの罪深い女性で、五十デナリオンの借金を帳消しにしてもらったのはファリサイ派のシモンのようです。しかし、シモンは借金を帳消しにしてもらったことも、借金があったことすら自覚していなかったようです。借金を罪というふうに昔は言い換えておりました。罪のことを謝金というふうに考えていたのです。しかしシモンは借金を帳消しにしてもらったことも、借金があったことすらも自覚していなかったようです。

 もそもそもファリサイ派の「ファリサイ」とは、一般の人々からの「分離」を意味しています。罪の汚れに染まない人を目指した人たちのグループに付けられた仇名で、「分離派」を意味していました。彼は他人の罪にはとても敏感でしたが、自分の罪、いや足りない点には意外と鈍感でした。反対にこの女性がなぜ罪深いと見られていたのか、彼女の名前すらもわたしたちは知らされません。もっと大切なことはこの女性がどうして自分の罪が赦されたことを知ったのか、なぜ主の足に感謝の涙を流したのかさえも聖書の読者には分かりません。ヨハネの洗礼で罪を赦されたと思っていたのだという注解者もいますが、ヨハネは悔い改めを促しただけで、罪を赦すのは神の子、主イエスの特権だと思うのです。だから、彼女は主にお目にかかりたかったのでしょう。シモンの家での食事の場に突然入って来て彼女がとった突飛な行動は食事を妨げたので常識を外れています。しかし、この涙にどういう意味があるのでしょうか。罪赦されたことへの感謝の涙だったのでしょうか。しかし、彼女が主から罪の赦しを宣言されるのは、その後でした。そして主は口先だけで罪を赦すとおっしゃったのではありません。主が赦された罪は御自分が代わりに引き受けて、十字架上で死なれることで贖われました。そのずっと後で生まれたわたしたちの罪も主が引き受けてくださいました。

 

 

 (略)自分には罪がないと思っている人が他人を厳しく裁く「ファリサイ根性」は全キリスト教徒が戦うべき相手だと最近亡くなった説教塾の創立者の加藤常昭牧師が生前に言っておられたと今回のセミナーで聞きました。

 

 このファリサイ派のシモンによって罪深いと烙印を押された女性はその後どうなったのでしょうか。ルカは今日の新約聖書に続く第8章の始めに女性の信徒たちが十二使徒と共に主に従って奉仕している記事を書いているので、これは彼女がその後にこの女性信徒のグループに入って活動したことを示唆しているそうです。

 さて、今日の旧約聖書はホセア書題4章1~8節です。そこには北イスラエル王国と首都サマリアの罪について述べられています。国や都市は女性名詞で書かれています。

  「サマリアは罰せられる。

   その神に罰せられたからだ。

   住民は剣に倒れ

   幼子は打ち殺され

   妊婦は引き裂かれる。

   イスラエルよ、立ち帰れ

   あなたの神、主のもとへ。

   あなたは咎につまずき、悪の中にいる。

   誓いの言葉を携え

   主に立ち帰って言え。

   『すべての悪を取り去り

   恵みをお与えください。

   この唇をもって誓ったことを果たします。

   アッシリアはわたしたちの救いではありません。

   わたしたちはもはや軍馬に乗りません。

   自分の手が造ったものを

   再びわたしたちの神とは呼びません。

   親を失った者は

     あなたにこそ憐れみを見いだします。』

   わたしは背く彼らをいやし

   喜んで彼らを愛する。

   まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。

   露のようにわたしはイスラエルに臨み

   彼はゆりのように花咲き

   レバノンの杉のように根を張る。

   その若枝は広がり

   オリーブのように美しく

   レバノン杉のように香る。その陰に宿る人々は再び

   麦のように育ち

   ぶどうのように花咲く。

   彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。」

 とあります。

 北イスラエルの王は首都サマリアのゲリジム山にエルサレムの神殿に対抗する神殿を築き、領土の北の町ダンと南の町ベテルにそれぞれヤーウェ信仰の対象として青銅製の雄牛の像を置きました。また、周辺の異民族の諸国との友好親善のために、王が政略結婚を進めて例えば、アハブ王が悪女のイゼベルを妻に迎えるなどをして、バアルやアシタロテなどの偶像礼拝に道を開きました。そのため、主なる神は異民族のアッシリアに北イスラエルを滅ぼさせ、イスラエル十二部族の内の十部族を捕らえてよそに移し、異民族を連れて来て残った民と雑婚させて、混血民族を作り、純粋なイスラエル民族を地上から消し去ってしまいました。預言者の言葉は神の言葉であって、前半の部分には赦しがありませんが、後半の部分には赦しが述べられています。そういう罪を犯した人たちをも主なる神さまは、赦すというふうに仰っておられるのです。その一部の人が悔い改めるということをそのきっかけとしてもらえます。

 

 どうか私たちが犯した罪に対して素直に悔い改めて、神さまに赦しを請うことができますようにお導きを切にお願いいたします。

 8月は本当に戦争に関する事柄の起こった月であります。どうか私たちがそのことをいつも思い起こして、戦争のない世の中をつかむために祈り求めることができますようにお導きを切にお願い申し上げます。

 

お祈りします。

 主イエス・キリストの父なる神様、御名を賛美します。

 今日は罪深い女性を主が赦された記事から聞くことが許され、心から感謝いたします。

 どうか、主がなさったことを過不足なく語り伝え、主を信じ、褒め讃える群れを増し加えさせてください。とりわけ神さまのなさった大きな救いの出来事を、私どもが信じて宣べ伝えることができますようお導きをお願いいたします。

 これらの感謝と願いとを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げします。   アーメン。

 

 

各地で災害が起こって「胸が痛みます」と、この日の礼拝で執事も祈っておられたが、ほんとうに世界中がおかしくなっている気がする。

 

 

 

 

バラとデュランタ。

 

こちらは、その前の週の、

小さなお花たくさん。



 

 

 

 

 

椿の柄の布をスカートに仕立てて・・。

 

 

内布を少し見せているのは、着物の半襟をイメージしたもの。

 

 

今回、ミシンの模様縫いにはまってしまった。

この内布に使っているのは、20代の頃にワンピースを作ろうと思って買い置きしていた物だが、ワンピースというものを私はほぼ着ないのだった。

 

 

 

 

布幅が足りなくて襞が綺麗に出ないのでもう一箇所ステッチをかけて仕上げた。

 

 

ボタンホールには苦労した。

 

 

洋裁をやっていると、「時計坂の家」のリサさんを思い浮かべる。

マトリョーシカだったリサさんのことを。

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居なくなった祖母の代わりに送られてきたお手伝いのリサさんは、フー子の祖母と対となる存在として描かれている。配置された自分の場所で静かに満ち足りて生きる人として。この物語の中でリサさんは、もしかしたら主人公よりも大事な人物として描かれているのかも知れない、と私は思う。置き去りにされた人達の傍らにあって、淡々とした日々を静かに慈しんで生きる者として。

 

 

 

 

こちらは、昔、痩せた頃に作って、着られなくなったのを、

今は、娘が気に入って着てくれている。

 

これも、

今は娘が着ている。

 

 

次は、

この布達を組み合わせて作ろうと思うけど、また来年かな?

 

 

 

 

 

継ぎ当てがさらに破れを大きくする(私の手芸遍歴)

誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。(マタイによる福音書9:16)

破れたところにこんなしっかりしたワッペンを貼ってまたその脇から破れて来て、また縫い合わせて・・。

 

 

 

 

 

 

 

高校の時は受験そっちのけで人形作りに没頭してた。娘が保育園の頃、その人形作りが再燃。色々着せ替え用の服も作ったのだが、今では埃にまみれて部屋の片隅。

 

 

 

 

袖をつけて模様縫いのステッチをかけた。

紺色には、茶色が合うと思う。

 

本当なら柄のある方が前になるだろうが、細かく刺繍した方を前に出したいと思った。

 

 

コンセプトは着物。

紺色のTシャツを合わせると、ちょっと忍者ぽい?

これは、刺繍で縁取りをしたのも含めてほぼ手縫いなので、私の作品と呼びたいような物なのだが、しかし外に着ていける気はしない。

 

meromeropy77.hatenablog.com

 

 

 

 

若い頃、洋裁を習っていた。夜の自由コースで。

卒業制作は、ブラウスとロングスカートのウエディングドレス。

スタンドカラーのフリル部分が難しかった。

 

 

 

見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(エレミヤ書1:10)

 

 

 

 

 

 

「十二使徒の選任」(8月9日の礼拝説教より)

「十二使徒の選任」

 2026年8月9日  聖霊降臨後第11主日  

聖書箇所:出エジプト記     19章 1節~ 6節

     マルコによる福音書   3章13節~19節

 

 大人の礼拝は「十二使徒の選任」と題してお話しします。

 先週はガリラヤ湖畔に押し寄せた群衆から逃れるために主イエスが弟子たちに一艘の舟を用意させ、その舟に乗って少し沖に出た湖上から話されたことをお話ししました。主は決して使徒たちをそれらの押し寄せた群衆の中からはお選びになりませんでした。それは主が人間中心でなく御自分中心で使徒を選ぶ必要をお感じになったからでした。そこで、主は祈りの場と神との出会いの場である山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは側に集まって来ました。どこの山とは特定されていません。あるいは後にご正体を現されるタボル山かも知れません。主がそこで、十二人を任命し、使徒と名付けられました。彼らを自分の側に置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能(これは病を癒やす力と考えられました)を持たせるためでした。こうして十二使徒を任命されました。十二というのはイスラエル十二部族のことで、新しい十二部族、新しいイスラエルという意味がありました。

 

 この記事の下敷きになっていると考えられる記事は旧約聖書出エジプト記第19章1~9節です。そこには、

  「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの

   荒れ野に到着した。彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に

   着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿

   営した。モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて

   言われた。

   『ヤコブの家にこのように語り、

   イスラエルの人々に告げなさい。」

 というふうに言われています。新約聖書ではここが、主イエスがこれと思う人々を呼び寄せて、そして使徒に任命するということになっています。

  「あなたたちは見た

   わたしがエジプト人にしたこと

   また、あなたたちを鷲の翼に乗せて

     わたしのもとに連れてきたことを。」

 エジプト人にしたことは、わかるようにファラオを葦の海の底に沈めたりなさいました。けれども「鷲の翼に乗せて」というのは、これはものの例えでして、なんとか砂漠をシナイ山のところまで安全に行かせて連れてきたという意味です。

  「今、もしわたしの声に聞き従い

   わたしの契約を守るならば

   あなたたちはすべての民の間にあって

     わたしの宝となる。

   世界はすべてわたしのものである。

   あなたたちは、わたしにとって

   祭司の王国、聖なる国民となる。

   これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』」

 その後、モーセはシナイ山を降りて、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語りました。民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と言いました。それから、三日目の朝、モーセは民を率いて山の麓に来て雷鳴を聞かせました。それから、モーセとアロンだけが山頂に行き、というのはその雷鳴で人々は恐れてしまったからでした。「十戒」を初めとする律法を授かりました。

 

 もし、律法授与に対する並行記事を新約聖書で探すなら、マタイによる福音書第5章から第7章にかけての「山上の説教」が新しい律法に当たるでしょう。これまで律法を授かってきたけれども、これからは福音を授けるというイエス様の意図がここにあります。

 さて、マルコによる福音書では、十二使徒の任命だけが記されています。シモンにはペトロという名を付けられました。これは使徒たちの中心人物とするためでした。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられました。彼らの宣教姿勢を示すものと言われますが、声も大きいし、感情の起伏も大きかったのでしょう。また、シモン・ペトロの兄弟のアンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに主を裏切ったイスカリオテのユダが選ばれました。

 

 ゼベダイの子ヤコブはスペインまで福音宣教に行って、そこで獲得した弟子をエルサレムに連れ帰ったことが知られています。使徒言行録第12章2節によれば、彼はその後にエルサレムでヘロデ・アグリッパ王によって首を切られて十二使徒たちの内で最初に殉教しました。ここから先は言い伝えですが、迫害下に彼の亡骸はそのスペイン出身の弟子たちによって海路、ひそかにスペイン西海岸まで運ばれ、彼の遺体を安置したサンティアゴ・デ・コンポステラ教会までの数百キロに及ぶ巡礼路は今なお多くの人々から愛されています。ヨハネは小アジア各地で宣教した結果、エーゲ海に浮かぶ小島パトモス島に流刑にされましたが、後に赦されて小アジアに帰って来て長生きしました。フィリポは共観福音書には名前しか出ていませんが。ヨハネによる福音書第1章35節以下によれば、ベトサイダ出身で、主に召された最初の弟子たちの一人で、ナタナエルを主のもとに導いた人物です。小アジアのヒエラオリスで殉教したと伝わっています。バルトロマイもいつもフィリポの次に名前が出て来ることから、ナタナエルの別名ではないかと言われています。教会史家のエウゼビオスやヒエロニムスによれば、彼はインドまで行って福音宣教をしたと言われています。インドと言えばトマスもインドで殉教したと伝わり、彼を記念して建てられた教会がカルカッタにあるそうです。徴税人出身のマタイはエチオピアに行って宣教したと伝わっています。熱心党というのはテロリスト集団でしたが、彼はペルシャに宣教に行って殉教したと伝わっています。また、タダイはシリアに行って殉教したと伝わっています。

 わたしたちは彼らについて多くを知りません。それは何故かというと、彼らの多くは世界中に出て行って福音宣教をした結果、現地人の迫害に遭って早い時期に殉教したからです。まさに遣わされた者たちだったのです。最後のイスカリオテのユダはカリオテ出身者とも匕首をいつも懐に忍ばせていた人とも言われていますが、十二人の一人として主イエスから信頼されていたにもかかわらず、主を裏切って大祭司たちに引き渡した人物として知られています。

 

 先週のNHKテレビの大河ドラマ「豊臣兄弟」では、羽柴秀吉が山崎の合戦で破った明智光秀を捕らえて極秘の内に面談するという今までになかったシーンを入れていました。それは何故、主君の織田信長を裏切ったのかを光秀本人に語らせるためでした。光秀は「わたしにとっての上様は足利義昭様以外にはありえないからだ」と答えたところで終わっていました。イスカリオテのユダにも「なぜあなたは主イエスを裏切ったのですか」と聞いてみたいと思うのはわたし一人だけでしょうか。

 もっとも1970年にエジプトの古代の墓地で発見され、一旦盗難に遭って見失なわれ、2000年に再発見されて2005年頃に解読されて話題になった「ユダによる福音書」は紀元2世紀にパピルスに書かれ、教父エレナイオスによって異端とされたグノーシス文書の写本です。そこには、主イエス御自身がイスカリオテのユダと十字架にお掛になる三日前に面談して、「あなたに使命を授ける。わたしを大祭司たちに売りなさい。そうすればわたしは十字架に付けられて父なる神が望まれたとおりに全人類の罪を贖うことができる。あなたはわたしのことを最もよく理解している弟子だからだ。しかしあなたは呪われる。」と書いてあるのですが、聖書全体から照らしておかしいと思います。

 

 わたしたちの教会は新しいイスラエル十二部族の信仰上の末裔です。一人一人がキリスト者としての使命を与えられています。ある人には福音宣教の、ある人にはキリスト教主義学校教育の、ある人には医療の、ある人には福祉の、またある人には家庭の中での子育てや教育の、それぞれが担うべき役割があると思います。使命は一つずつではなく、様々な役割を兼ねている方が多いのではないかと思います。

 皆が等しく持っているのは主イエスをわたしたちの救い主キリストと証言する務めです。役割が与えられた人にはそれを成し遂げる能力が恵みとして与えられるとわたしは信じています。一生で何も成し遂げられなかったと思っておられる方も主イエスをわたしの救い主と告白して洗礼をお受けになっただけで福音を証しした人として主からねぎらいと共に永遠の命を受けるでしょう。

 わたしたちは地の塩、世の光として歩んでいくことができるよう祈りたいと思います。

 

お祈りいたします。

 わたしたちの救い主にして教会の首、主イエス・キリストの父なる神様、御名を賛美します。

 今日は「十二使徒の選任」をマルコによる福音書から聞くことができましたことを心から感謝します。

 わたしたちは信仰上の彼らの末裔です。先々週に起こった熊本での大地震はいまなお水道が使用不可能となっているために、被災者たちが猛暑の中、大変な労苦をしておられることを日々の報道で知らされています。どうか、余震が一日も早く治まりますように、また水道、またそのほかのライフラインが復旧しますように導いてください。

 とりわけ、彼の地で福音宣教に励んでいる諸教会をお守りください。そのためにわたしたちを協力させてください。

 また、今日は81回目の長崎への原爆投下記念日です。核なき平和を実現することができますようお導きください。

 これらの感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によってお献げします。

    アーメン。

 

 

 

流木のように見えるのは、百日紅の下に落ちていた百日紅の木の皮らしい。


 

 

 

 

 

 

「知る力と見抜く力とを身に着けて…」(フィリピの信徒への手紙1:9)(ロシア、プーチンについて)

 

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。(フィリピの信徒への手紙1:9、10)

 

 

 

 

 

 

また、こんな歴史の見方もあるようだ。

 

 

 

 

 

 

ペスコフ大統領報道官が最近、ゼレンスキーについて完全に非合法だと発言したことにも触れつつ、ウクライナ側が合意を履行せず、それを美徳のように扱ってきたと指摘しました。 結果に直面するたびに西側へ資金や兵器を求めて駆け込み、帝国の脅威を訴えるという構図を批判的に語っています。(抜粋)

 

シオニストの脅迫に屈してウクライナに3兆円以上支援し、 日本のメディアを使い、ロシア悪とありもしないホラ話を毎日まき散らし、反露を徹底する日本に呆れ、プーチンはもう日本に配慮しないということだ。日本がロシアと中国に向けての敵対行動を止めるのが先。(抜粋)

 

 

「私たちはあなたたちを待っていました!」

ロシア軍は、クラスノアルメイスク解放の一環として高齢の民間人を避難させています。前進するロシア軍は、これらの人々から解放者として見なされています。これがゼレンスキーのナチス崇拝の「英雄」たちについて何を語っているのでしょうか?