「黙れ、この人から出て行け 」
2026年6月7日 聖霊降臨後第2主日
聖書箇所:創世記 1章 1節~ 5節
マルコによる福音書 1章21節~28節
洋の東西を問わず、昔からある種の病気は人の中に住まう悪霊が引き起こすものと考えられていました。精神病やてんかんなどはそれらを代表する病気だと考えられていたのです。そして、主イエス・キリストは悪霊を病人から追い出すことで病気を癒やされたとの記載が福音書の中にはいくつもあります。実際に「悪魔払い」などという儀式がカトリック教会などには今もあり、架空の存在に人の中の悪い部分を付けて追い出す儀式をすることで病気が治ることがあるのだそうです。わたしたちはこういう記述を非科学的だからと断定して無視してよいでしょうか。
主イエスはガリラヤ湖畔のカファルナウムにやって来ました。ここは出身地のナザレと同じガリラヤ地方にあります。主イエスの具体的な宣教活動の出発点になり、さらにはそこにあったシモンとアンデレの実家が主の一行の活動拠点となりました。カファルナウムは当時、決して寒村ではなかったようですが、湖畔の周辺のティベリアやマグダラと比べると、その重要性は一段低かったと言われます。かつて旧約聖書の時代には「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8:23)と揶揄され、主イエスの時代にも「メシアがガリラヤなどから出るだろうか」(ヨハネ4:41)とさげすまれた場所を宣教の地とされた主イエスは、さらにそのガリラヤの中でも都会や宗教的伝統のある町ではなく、カファルナウムを選び、最初の活動拠点とされました。
ここにマルコが描こうとした主イエス像が明らかにされています。それは、人が認めた重要性や権威に近づくのではなく、周縁に追いやられた人々に福音を届ける主の姿でした。
マルコは自分が描く主の姿勢として、最初に誰に向き合ったかを示します。それは徹頭徹尾、マルコによる福音書に貫かれる主イエスの姿だったのです。
今、わたしたちが生きている世界で周縁に追いやられているのは誰でしょうか。戦争に巻き込まれているウクライナやガザ地区やイランの人々や我が国でも震災や台風による被災者たちかも知れません。まさに、そのような人々と共におられた主イエスの姿を、マルコは描いているのです。
そのカファルナウムの会堂で、主イエスが安息日に教えられたことが告げられますが、「教える」という動詞にギリシア語の未完了過去形が使われているということは、一度限りのことではなく、継続的な行動だったと理解されます。 「安息日になると、主イエスが会堂に出かけて行って話をされる事がよくあった」という意味です。主の教えを何度も聞くことができた聴衆は、とてもうらやましい存在だったと思います。その恵みに与ったのがカファルナウムの人々でした。そして聴衆たちは、「その教えに驚いた」と記されています。マルコはその理由として、「主イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」と述べているのです。
人々は、主イエスの教えにより、新たな権威がそこに生じていることを知りました。それは、世の権力者が有するような権威ではありませんでした。つまり、人が認める権威ではなく、主イエス自身が持つ権威だったのです。
22節の「律法学者のようにではなく」という言葉に注目してみましょう。律法学者の権威とは何かといえば、それは明らかに律法に基づく権威でした。 この時代、律法学者は「ラビ」と呼ばれていました。そして、ラビが会堂で教えを語る場合、どんな言葉を伝えるにしても、「ラビAが…と言ったとラビBが言っている」という形式を取ったそうです。時には三人も四人も自分に先立つラビの名前を挙げて、自分の言葉の正統性を主張することもあったそうです。最終的にはその権威の系譜をモーセの律法に遡らせ、自分の教えは権威があり正しいと語るのでした。
それに対して主イエスは、自分の言葉で語り、それを聞いた人々が主を「権威ある者」と認識しました。 自分自身が「権威」を持つ者として語られたのです。マタイによる福音書第5章から第7章にかけて記されている「山上の説教」の中にも、主イエスは第5章21節以下の反対命題において、何度も反復して「しかし、わたしは言っておく」とお語りになっています。また、「よく言っておく」という言葉を最初に述べた上で、自身の考えをお伝えになりました。これらは主が自らの内側にある思いに基づいて語られたことを示しています。そして「山上の説教」の最後では、聴衆は主の教えに驚き、その理由として、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」(マタイ7:29)と記されました。まさに、今日の新約聖書と同じ反応を示す聴衆たちの姿が、マタイによる福音書でも描かれるのです。主イエスは事実を事実としてありのままにご覧になるがゆえに、他には言いようがないとの確信を持って、人々に教えを告げられたのです。ここに、権威ある者としての主イエスの姿が確かに現れているのです。
主イエス自身の教えに権威を見出した聴衆たちは、さらに今日の23節以下で、汚れた霊に取りつかれた人を癒やされる主の奇跡行為をも目撃することになりました。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』主イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」主の権威は単に言葉だけの教訓によるのではなく、行為にも基づいていたとマルコは告げたかったのでしょう。「権威ある者としてのイエス」を指し示すため、マルコは教えと奇跡を一つの物語として結び合わせました。
この一連の物語を理解する鍵となるのが、汚れた霊が主を「神の聖者」と呼んだことへの理解でしょう。主イエスへの「神の聖者」との呼びかけは、マルコによる福音書ではここにしか出て来ません。しかし、マルコは「神の聖者」と主を呼んだのが、たとえ汚れた霊であろうとも、主が何者かを正しく言い当てているとして、肯定的に記したと受けとめたいです。
なぜなら、少し先になりますが、第3章11節で、マルコは「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して『あなたは神の子だ』と叫んだ」と記しているからです。今日の場面から第3章11節までに、他に主が汚れた霊と対峙した物語はありません。つまり、第3章11節で汚れた霊たちが主を「あなたは神の子だ」と認めたのは、今日の新約聖書で汚れた霊が主を「神の聖者だ」と呼んだことを受けているのだと理解されます。
人間たちよりも先に、汚れた霊や悪霊が主イエスの本質を見抜いていたとする言葉は他にもあります。第1章34節で「悪霊がイエスを知っていた」と記されているのもその一つです。主イエスの権威の源が神にあることを、宣教活動の初期段階において指し示すこともまた、マルコの意図であったとも考えられるのです。
汚れた霊に取り憑かれた人が癒やされるのを見て、人々は再び驚き、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
奇跡行為を人々が「教え」と理解したとするマルコの記述に注目すべきでしょう。主を通して語られた言葉となされた奇跡は、「権威ある新しい教え」として人々の内面に届いたとマルコは言いました。そして、その教えを最初に受け止めたのが、周縁に生きるカファルナウムの人々だったのです。 何と恵まれたことでしょうか。カファルナウムの人々は、主イエスの教えをまっすぐに受け取る感性を持っていました。この人々の姿勢に、わたしたち自身を重ねたいと思います。
マルコは、この物語を主イエスの宣教活動の最初に位置づけることで、教えか奇跡かの一方に偏るのではなく、その両方によって主イエスの全体像は理解されると、彼自身が発明した福音書の方向を指し示しました。主は神の真理を伝える者として、また奇跡行為者として「権威ある新しい教え」を広めるために地上に来られました。主の御生涯すべてが福音であるとのマルコの思いが、ここに表明されています。
神に由来する権威を、言葉と行為によって示された「主イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とマルコは記しています。その広がりがわたしたちにまで達しました。だからこそ今、わたしたちは自分たちの生かされている場で、その福音に接することができるのです。 主イエスの「権威ある新しい教え」を直接聞くことはできなくても、マルコの記した福音書を通して読み、感じることができます。この喜びが、わたしたちの生きる命の糧です。
今日から始まる新しい1週間もまた、わたしたちのところにも届いた福音をいつも感じ取り、内面から新しくされ、主イエスによって生かされる喜びを精一杯感謝して歩んで行きたいと思います。
今日の旧約聖書として、創世記第1章1~4節を選びました。そこには、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕ベがあり、朝があった。第一の日である。」とあります。
神の言葉によって世界は出来ました。今も神の言葉が世界を変え、人を変える ことを信じて福音宣教の業に仕えて参りたいと思います。
お祈りします。
教会の頭、主イエス・キリストの父なる神さま、御名を賛美します。
今日は安息日に主がガリラヤ地方のカファルナウムの会堂に入り、教え始められたことと、そこにいた悪霊つきの男を癒やされた記事から聴くことができたことを感謝します。主は中央より地方を、人の権威のみが尊重された時代にあって、神の御子としての権威と力を示されました。
わたしたちのこの日本国もこの時代も同じ状況にあります。どうか、この時代と国と地方に向けて福音を適切に伝え続けて行くことが出来るように導いてください。
感謝と願いを御子主イエス・キリストの御名によってお献げします。
アーメン。
教会の紫陽花とミルトスが・・。