風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

恵みに満ちた律法(聖書から栄養学へ ー ネヘミヤ記8:10より)

彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。(ネヘミヤ記8:8〜14)

 

ネヘミヤ記の「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。…悲しんではならない。」という言葉を読んで、栄養素の本に記された内容を思い浮かべた。

以下、

meromeropy77.hatenablog.com肉、卵、牛乳などに含まれるトリプトファンは、脳でセロトニンという精神を安定させる物質をつくりますが、トリプトファンが脳内に入るためにはブドウ糖が必要となります。
そのため、肉を食べても糖質を合わせてとらなければ、脳はリラックスできません。食事で肉を、デザートで甘い菓子を食べるのは、脳をリラックスさせるのによい組み合わせです。(則岡孝子=監修『栄養成分の事典』p103)

 

それにしてもネヘミヤ記のこの箇所は素晴らしいと思う。

神様から与えられた律法が恵みの書であるということがとても良く伝わってくる箇所である。

 

讃美歌54

1 よろこびの日よ、ひかりの日よ。慰めの日よ、憩いの日よ。

  代々のみ民の御前にふし、こよなき御名をたたえし日よ。

 

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com 神学の世界では「福音と律法」というように律法は福音とは違うもの、福音と対立するものと理解されるような表現が使われることがあります。しかしわたしは、この表現は適当ではないと思っています。律法も、神と共に、隣人と共に生きることを指し示す福音であり、恵みです。

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com さてその律法ですが、神は何のために律法をお与えになったのか。それは、罪の世にあっても、神と共に生きるため、神のもとで共に生きるためです。この「共に生きる」は、聖書の柱となっているメッセージです。
(略)
 愛は、共に生きることを造り出すエネルギーであり、律法は、共に生きることの道筋を示すものです。ですから、愛と律法はよく合うし、つながっているのです。
(略)
 だから、共に生きようとする愛だけが、律法の願いを果たすのです。それをパウロは「愛は律法を全うする」と言っています。8節と10節で二度言っています。

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com 律法は、神の恵みの中にいる人がそこに留まり、神の祝福の内に生きるための恵みの戒めです。

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com そして最後に確認するようにパウロは言います。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
 信仰によって律法を確立するとは、どういうことでしょうか。
(略)
 神が与えてくださる救いの恵みを、イエス キリストを通して知るとき、戒めも神と共に生きるための恵みであることを知るのです。喜びと感謝をもって、戒めを受け取ることができるのです。神と共に生きる大いなる恵みに招かれている。すべての神の言葉が、わたしたちを神へと導いてくださることを、イエス キリストによって知り、神を喜ぶのです。

 

 

木槿サルスベリの花がこぼれて・・。