風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

復活節前第12主日礼拝説教(ルカによる福音書23:1~5)

  「ピラトの尋問」

 
 2022年1月23日(日) 復活節前第12主日 

聖書箇所:ルカによる福音書 23章1節〜5節

 

 
 過越の食事の夜、イエスは逮捕され、夜が明けると同時に、最高法院における取り調べが始まりました。

 「では、お前は神の子か」という問いに対してイエスが言った「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」という言葉を聞いて、死刑にすることができると判断した議員たちは、イエスをピラトのところに連れて行って訴え出ました。

 

 当時ユダヤは、ローマ帝国支配下にあり、ローマから総督(ユダヤ属州総督)が派遣され、総督がユダヤ統治の責任者でした。ユダヤ人たちは、自分たちの法に従って死刑を行うことはできず、総督の許可が必要でした。

 エルサレムの指導者たちは、総督に対して「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」とイエスを訴えたのです。

 

 当時ローマは広大な領土を支配下に置き、多くの民族を治めていました。ローマ帝国は法によって秩序を築き、その多くの人々を支配していました。そしてローマの法において死刑にされるのは、帝国に対する反逆罪でした。ですから、エルサレムの指導者たちは、イエスを死刑にするために「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」と訴えたのです。

 

 それを聞いてピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねたのです。

 イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。ここは原文では「わたしがそのようなものだとあなたが言っている」となります。新共同訳も新しい聖書協会共同訳もほぼ原文どおりに訳しています。

 

 これは、わたしたち一人ひとりがイエスを前にして、イエスが何者であるかを判断し、告白するのだということを示しています。

 イエスユダヤ人の王か否か。神が約束されたメシアかどうか。あなたとどのような関わりのある者かを、それをあなたはイエスの前であなた自身が判断し、告白をするのだ、ということを示す答えだとイエスは言っておられるのです。

 

 わたしたち一人ひとりも、イエスが何者であるかイエス キリストご自身から問われているのです。この人(イエス)が、聖書が証ししているようにわたしたちの救い主であるのか、それとも優れた人だけれども一人の人間に過ぎないと言うのか。

 

 ピラトは、総督としてイエスに尋問し、彼は判断します。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」ユダヤ属州総督として、ローマ法に照らし、彼は判断します。死刑はもとより、ローマ法に抵触する何の罪も認められなかったのです。

 

 これではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」

 彼らはイエスを死刑にしたいのです。ですから何としてもローマに反逆する危険人物であると認めさせなくてはなりません。ですから最初の訴えも「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」と、ローマの法に背き、税金を皇帝に納めることを禁じています、ローマ皇帝ではなく、自分が王なのだと言っています。そしてガリラヤからエルサレムまで、全国で教え、独立運動に民衆を扇動している、と訴えるのです。「総督、この男を死刑にしなければ、暴動が起きるかもしれません」と訴えるのです。

 

 訴えはどれも真実ではありませんが、彼らにとっては真実などどうでもいいのです。自分たちのメンツが大事なのです。神の言葉に従うよりも、自分たちが尊敬され、自分たちに民が従うことが大事なのです。そのためにはイエスは邪魔なのです。何としても亡き者にしなければならないと彼らは決断したのです。

 彼らはもはや神に立ち帰ることもなければ、神に従って生きることもありませんでした。自分たちの権威のために教え、儀式を行うだけになってしまっていました。そこで神は、イエス キリストによって新しい神の民、新しいイスラエルを起こされたのです。それがキリストから始まるキリスト教会です。   

 

 ただこれは、神がイスラエルを捨てられたということではありません。

 パウロユダヤ人の救いについて、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」と、ローマ人への手紙11章32~36節に述べています。

 

 わたしたちにとって最も大切なのは、神に立ち帰り、神と共に生きることです。それは、イエス キリストの救いに与る以外にはできません。罪が潜んでいる自分の善悪に従っている限りできないのです。イエス キリストの救いに与り、キリストの恵みに満たされていくとき、わたしたちは罪を超え、死を超えて、喜びをもって神の許へと立ち帰ることができるのです。

 

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 祈ります

 

今、礼拝において聖書に書かれたあなたの言葉を聞きました。私たち一人一人が聖書が証しているようにイエスが私たちの救い主だと告白し 、神に立ち帰り、神と共に生きることができますように。

また、これから開かれる総会をあなたが見守り導いてください。

 この祈りを主イエスキリストの名によって御前に捧げます

 

 

 

 

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