ところで信仰における第一の問題は、「人間が何をするか」ではなくて、「神が私達人間のために何をしてくださったか」、そのことにあるのです。そのように言って良いかと思います。その神が私達のために何をしてくださったかということを知らせるのが、この16節であります。
この言葉に込められているメッセージは、それでは何でありましょうか。それは、神の愛、私達人間に対する神の愛がここに語られている、と言うことが出来ます。
上の言葉は、過去記事で全文を掲載させて頂いた久野牧先生の説教の中の言葉です。
聖書を読む時、「弟子たちはどうしたか」、「この人はどうすべきだったか」というようなことに焦点を当てて読むと、神の御心は見えなくなります。
説教も、全てを捨てて従った弟子達のように従いなさいというような叱咤激励型の説教は、最初は人を昂揚させるでしょうが、聞きつづければ次第に他人と比較させ、息切れさせ、最終的には信仰を潰すことになるだろうと思います。
聖書を読む時、説教をする時の最重要点として、「神が私達人間のために何をしてくださったか」を聴き取るということを深く心に刻み込みたいと思うのです。
「神が私達人間のために何をしてくださったか」ー ここから、私たちの信仰告白も導き出されてくるのです。
以下は、過去の夫の説教(マルコによる福音書1:16~20)
イエスは自分の故郷ナザレのあるガリラヤで救い主として活動を始められました。
後にイエスは「預言者は自分の故郷では歓迎されない」(ルカ4:24,参照マルコ6:4)と言っておられますが,ガリラヤは決して活動しやすいところではありませんでした。また,ガリラヤは,イザヤの預言の中で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているように(8:23)ユダヤにとっては辺境の地でした。
わたしたちは人も多く,しがらみの少ない都会の方が伝道しやすいと思っていますが,神の思いはわたしたちの思いとは違います。教会の業は神の救いの御業であるということを忘れてはなりません。
神の御業は人の思いを越えています。やりやすそうだとか,この人は信じるかもしれないではなく,命を造り出される神,救いのために独り子をさえ遣わされる神が御業をなされるのだということを心に留めなくてはなりません。
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき,シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になしました。彼らは漁師でした。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると,二人はすぐに網を捨ててイエスに従いました。少し進んで,ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが,舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると,すぐに彼らをお呼びになりました。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して,イエスの後について行きました。
とても不思議な話です。
シモンとアンデレ,そしてヤコブとヨハネ,彼らはイエスを知っていたのでしょうか。イエスの話を聞いたことがあったのでしょうか。ルカによる福音書によれば,彼らを弟子とされる前にイエスは活動を始められて「イエスのうわさは,辺り一帯に広まった。」(4:37)と書かれてあります。しかし,マルコによる福音書は何もそれらしきことは書いていません。たとえうわさを聞いていたとしても,直接会ったのは初めてだったのではないでしょうか。
見知らぬ男がやってきて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ったのです。怪しいことこの上ない話です。けれど彼らは網を捨ててイエスに従うのです。
これは不思議な話なのです。不思議なことに彼らは救い主に出会ったのです。
彼らが救い主を探し求めていたのではありません。イエスが彼らのところに来られたのです。イエスが彼らに声をかけ,招かれたのです。
わたしたちは自分で何かを求めて教会に行ったと思っているかもしません。しかしそうではなく,見ず知らずのイエスがわたしたちの日常の生活の中に来られて「わたしについて来なさい」と招かれ,導かれたのです。
4人の弟子たちもなぜこの時網を捨ててイエスに従ったのか具体的な説明はできないと思います。そういうことは聖書のどこにも書かれていません。ただ彼らはイエスに出会い,イエスに招かれたから従ったとしか言えないでしょう。
彼らはイエスのことをよく知っていて好きだから従ったのではありません。イエスに「わたしについて来なさい」と言われたのです。
ヨハネによる福音書では「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(15:16)とイエスは言われています。
またヨハネの手紙一には「わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して,わたしたちの罪を償ういけにえとして,御子をお遣わしになりました。」(4:10)と書かれています。
わたしたちはそれぞれこういう中で教会に行くようになった,こういうことがあって求めるようになったというようなことがあると思います。けれど根本的な理由はわたしたちの内にあるのではなく,神の内にあるのです。
神がわたしを愛してくださり,キリストを遣わしてくださった。イエス キリストがわたしのところまで来て出会ってくださり,「わたしについて来なさい」と招いてくださった,ここにキリストに従うすべての弟子の理由があるのです。
シモンとアンデレ,ヤコブとヨハネにとってイエスとの出会いは決定的なものでした。すぐに網を捨てて従うほどに,父を残してついて行くほどに決定的なものでした。
聖書にあるたった一言だけでなく,もっと話したのではないかと思いますが,この出会いが何かというなら「イエスがわたしの働いているところに来てくださり,「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招いてくださった」ということなのだと思います。
ここで「人間をとる」と言われていますが,「人間をとる」ということは人間が失われているということです。
幼児の虐待,少年の犯罪,次々起こる事件,そして戦争のニュースを見るとまさしく人間が失われていると思います。
弟子たちはイエスの言葉によって務めを与えられただけでなく,イエスが自分たちを求めて,捉えるために来てくださったことを知ったのです。
自分の働いている,生きているその場にこのわたしを求めてやって来られた,自分の目の前にいるイエスという人が罪により失われていた人を捉え救い出してくださる,このわたしを救い出してくださる,そのことを知ったのです。
だから,すぐに網を捨てて従った,父を残してついて行った。放り出したのではなく,イエスを信頼し委ねた。
後にイエスは「わたしの後に従いたい者は,自分を捨て,自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。」(8:34)と言われたが,これもイエスを信頼し,自分自身を委ねること。イエスが失われているものを捉えてくださるから,大事な人を,大切なことをイエスに委ねていく。
仕事をし,家族とのことを果たし,余った時間でイエスを仰ぐのではない。第一にイエスに従うとき,すべてをイエスが捉え導いてくださる。
だからイエスはこうも言われた。「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
ここに出てくる四人は十二弟子と呼ばれる特別な務めに召されました。けれど,この出来事は特別な務めに召された人のためのものではありません。イエスに出会い,イエスに捉えられ救い出されたすべての人に起こった出来事です。
主はすべての人に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われています。主はわたしたちを用いて失われたものを捉え,愛する者を救い出されるのです。
だから,主に従い,ついて行くのです。自分自身も,仕事も,愛する者もすべてを主に委ねてついて行くのです。主が御業をなしてくださいます。
きょう心新たに主の招きを聴き,主に従いましょう。イエスは言われます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
飲食(おんじき)の煩ひに満つ古里の海辺のまちに主は来たりたまふと
潮の香の開け放たれし窓辺より流れ来りてキリストの顕(た)つ