「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。…。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ記8:10 新共同訳)
「こんな言葉に引かれています」と、ある牧師にハガキを書いた。すると、「行って」が強調されたお返事が届いた。
この箇所は口語訳では、
そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。 (ネヘミヤ記8:10 口語訳)
リビングバイブル訳では、
律法がどのように命じているかを理解すると、人々はみな泣きだしました。それで、エズラをはじめ、総督の私や補佐役のレビ人たちは、こう言い聞かせました。「このような日に泣いてはならない。今日は神である主の聖なる日ではないか。ごちそうを食べてお祝いし、…。神である主を喜ぶことこそ、あなたがたの力なのだ。しょんぼりと悲しそうにしていてはいけない」
「静粛に、静粛に」と、レビ人も声をかけて回り、「そうです。泣くことはないのです。今日は聖なる日で、悲しみの日ではありません」と言いました。人々は解散すると…。神のことばを聞いて理解することができたので、大いに喜んで、盛大に祝ったのです。(ネヘミヤ記8:9〜12 リビングバイブル)
集まってきた民は指導者に律法の書を読んで欲しいと頼んだのだ。けれど、「律法がどのように命じているかを理解すると」、泣きだしたのだ。
律法の命じていたことが厳しすぎたのだろうか?
それで指導者たちが「このような日に泣いてはならない。今日は神である主の聖なる日ではないか。ごちそうを食べてお祝いし、貧しい人には施しをする日なのだ。神である主を喜ぶことこそ、あなたがたの力なのだ。しょんぼりと悲しそうにしていてはいけない」と言い聞かせると、「神のことばを聞いて理解することができた」ので、解散してご馳走を食べてお祝いをしたのだ。
いつも礼拝で、最後の祝祷の前に「平安のうちを行きなさい」と言っていた。
面会でこの御言葉を読み聞かせて、「○○先生からこんな返信が届いたよ」と話し、いつも祝祷の時に「平安のうちを行きなさい」って言ってたよね、と言うと頷いた。
自分が太極拳を習っていたことも忘れてしまっているようなのだけど、このことは覚えていた。30年この言葉を語り続けてきたからだ。
返事を下さった先生は、この「行って」の意味を理解して、強調して書いて来られたのかと思う。この先生も祝祷の前に、「平安のうちを行きなさい」と言っておられた。
牧師というのは(牧師にもよるとは思うけど)、聖書の中身をきちんと理解しているものなんだなぁと思わされた。私みたいに、その一節の言葉だけに引かれて嵌まるというのではなくて。
それにしても、律法にしても聖書に書いてあることにしても、解釈して神の愛を伝えて貰わなくては理解できないのだと思わされる。
生きる力となるような恵みに満ちあふれた福音が語られることを願う。
それにしてもネヘミヤ記のこの箇所は素晴らしいと思う。
神様から与えられた律法が恵みの書であるということがとても良く伝わってくる箇所である。
人を生かすことが出来る説教、そして人に死へと赴かせることが出来る説教 ー 良い説教とは、ここに極まるのではないかと思う。
キリストが死への道を切り開いて下さったからだ。
引っ越しの間中
「大好きなひとたちと甘いお菓子をつまんで」(梶浦由記=作詞「やさしいうた」) pic.twitter.com/MLwjJTqbKf
— メロメロピー77開業してないアロマセラピスト (@syodainekosuke) 2024年4月24日
この続きは、
みんなが笑いさざめいて
優しい音を探しに
手を振ってそれぞれの
夢路に帰るまで
木枯らしを超えた頃
— メロメロピー77開業してないアロマセラピスト (@syodainekosuke) 2024年4月24日
また会えるから
一緒に遊ぼう
笑って(梶浦由記=作詞「やさしいうた」) pic.twitter.com/fxYjDiknWw
この歌を聞くと、梶浦由記さんって聖書のこの言葉知ってたんじゃない?って思う。