風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の恵みに与った私達は、・・」(長老の説教補足からドストエフスキーまで)

夜うちに帰って、『福音と世界』「キリストの信実によって義とされる」を、疲れて途中で寝ぼけながら、数日かけて読んでいた。

 

以下に、「キリストの信実によって義とされる」(パウロの義認論を見直すーその二)から最後の部分を抜粋引用する。

 「霊の実」(「義の実」)の筆頭にパウロは「愛」を挙げている。当然彼の論敵も隣人愛を説いたであろうが、パウロは愛をキリストの十字架の死から解釈した。二・二〇でパウロはこう言っている。

 

  生きているのは、もはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きているのである。今肉にあって生きている生を、わたしは、わたしを愛しわたしのためにご自身を渡された神の御子の信実によって生きているのである。

 

ここには「御子の信実」という言い方が出てくる。これはキリストの愛と密接な関係にあるが、愛の同義語ではなく、愛において自分を渡された神の子があらゆるキリスト教徒の(義なる)「生」の根拠として絶対的に信頼できる、という意味である。

(略)

 しかし、御子の愛が救出と義なる生き方の根拠であるとはいったい何を意味するのだろうか。五・一四でパウロは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」の一句によって律法を要約した。これは、律法の要求の正当性の承認であると同時に、愛の定義でもある(定義の中に定義される言葉が用いられているにもかかわらず)。律法は愛を命じるがゆえに「聖なるもの」、「霊的なもの」、「神の約束と相いれないものではない」と言われる。しかし要求は要求の充足と同じではない。律法は命じるだけで「人を生かす力」を与えない。それどころか、律法授与の目的は「違反を促すため」であった。律法は、レヴィナスの言葉をかりれば「私が他者にたいして無限に義務を負っていること」を教えるわけだが、その義務を果たす手助けをするわけではない。

 しかしキリストが十字架の死において示した愛は、パウロによれば、この要求の完全な充足であり、言わば「他者に対する無限の義務を無限に果たして余りあるもの」であった(これを「脱自」と呼びたい)。(略)キリストの愛によって「罪」、つまり人間が他者を受け入れ自分と同じように愛することを阻んでいる構造的な力は克服され、その力の場から脱出する道が現実に開かれた。こうして今や「キリストにある」者は、キリスト(の霊)にあずかることによって罪の支配から自由にされ、愛と義を実践することができる(ガラ五・六、一三)。霊によって歩むならば「肉の欲」を満たすことがないばかりか、「霊の実」が結実し、その行き着く先は「永遠のいのち」である。「キリストの信実」を先述のようにとるなら、「キリストの信実によって義とされる」というテーゼは以上の意味(後半部)までも含むことが納得されるであろう。

 「越境」と比べて「脱自」は道徳的・保守的だとして嫌う人がいるかもしれない。しかし、これらはどちらも「自己同一性」から、つまり共同体的な在り方から出ることを意味し、どちらが欠けてもパウロの十字架の神学は成り立たない。キリストの十字架は、キリスト教徒の生を、苦難だけでなく愛についても規定するのである。

(太田修司=筆『キリストの信実によって義とされる』(その二)「福音と世界」(1996年4月号)掲載より)

 

途中で引用されている「二・二〇」はガラテヤ書2:20。この聖書箇所は、私がカラマーゾフの兄弟のアリョーシャに関連して引用した箇所だが、この太田修司さんの「「越境」と比べて「脱自」は・・」以下を読むと、アリョーシャを描いたドストエフスキーの信仰がどういうものであったか理解できると思われる。

myrtus77.hatenablog.jpゾシマの死後、アリョーシャが庵室を出て表階段を下りたところで大地に伏し大地に接吻するシーンがある。

この場面の後に次のように語るアリョーシャの言葉が出てくる。

 

「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった・・・

 三日後、彼は修道院を出たが、それは「俗世にしばらく暮すがよい」と命じた亡き長老の言葉にもかなうものであった。(原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)より引用)

 

この「訪れただれか」とはキリスト以外には考えられないのであるから・・。そう考えるのは、ドストエフスキーが精読していたと言われる聖書に次のような言葉があるからである。

 

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:20)

 

 

さて、ここで私が書こうとしているのは、日曜日に代読して下さった長老が夫の説教に補って下さった最後の一言についてなのだ。

myrtus77.hatenablog.comそして、神の恵みに与った私達は、伝えられた福音を宣べ伝えていく使命が与えられていると思います。

 

「神の恵みに与った私達は」と語られている。この一言が決定的に大事だと思えた。

私たちは、救われるために信じるのではないのだ。信じたから義とされたのではないのだ。「キリストの信実によって」義とされたのである。

 

そして「キリストの信実によって義とされた」故に、「伝えられた福音を宣べ伝えていく使命が与えられている」のであり、愛して生きる道が開かれているのである。

 

 

生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2:20 聖書協会共同訳