風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「罪の奴隷から義の奴隷へ」(ローマの信徒への手紙6:15~23)

昨日は引退された先生の応援によって礼拝が守られた。

以下に、書き起こした説教原稿を掲載させて頂く。

 

「罪の奴隷から義の奴隷へ」(ローマの信徒への手紙6:15~23)

 イエス・キリストによって救われた信仰者とはどのような存在かということを語っている箇所である。別の言い方をすれば、信仰者でない人とはどういう存在かを間接的ながら語っていると言ってよいであろう。そして、この手紙の著者パウロは、わたしたちに二者択一、あれかこれかの選択を迫っているのである。

 この世に起こることは、大方は相対的である。これでなければならないということは、そう多くはない。絶対というものはなく、たとえ大切と思われるものが得られなくても大概は、他のもので補うことができた。古い話であるが、戦中戦後、ものが何でも不足していた。食料は無論のこと、着るものもなかった。代用食とか代用品という言葉がよく遣われていた。ティッシュペーパーの代わりに新聞紙を小さく切って使用した。気をつけないと鼻が黒くなったりした。それが当たり前であった。

 ところが、ここで使徒パウロは、信仰者に与えられている救いに関しては、絶対だという。他のもので間に合わせたり、補ったりはできないと断言する。それは、どういうことなのであろうか。考えてみたい。

 

Ⅰ 信仰者に罪を犯してよい理由があるか

 信仰者に与えられている救いとはパウロの言い方をすれば、律法の行いによってではなく、信仰によって、恵みによって与えられているものである。この真理を彼独特の表現で記している。

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5章20節)

この言い方は、誤解される可能性のあることに気づいている。それを知って、6章1節に予想される問いを提起している。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」

さらに、この問いを発展させ、新しい問題を提起しているのである。それが、きょう取り上げた15節の内容である。

 6章1節では、「罪の中にとどまるべきだろうか」と言っていたが、ここ15節では、さらに「では、どうなのか。・・・罪を犯してよいということでしょうか」と言っている。口語訳聖書では、「わたしたちは罪を犯すべきであろうか」となっていて、罪を犯すことに積極的理由を与えるのではないかとの疑念が言い表されている。

 確かに、パウロの恵みの理解には罪を犯すことに道を開く危険があると抗議がなされた。ユダヤ教の律法学者達からの非難である。人間が、罪を犯さないようになるには律法の下に生きる以外にない。律法を守らなければ、重い処罰があるという以外に人間を罪から守る道はないという考え方である。このような律法主義の立場からすると、恵みによる救いは罪を犯すことをよしとし、是認しているように見える。だから、ユダヤ教の律法学者たちは、最初のキリスト教会を迫害したのである。昔、その先頭に立っていたのが、回心する前の使徒パウロであった。だから律法学者らの心配はよく理解できるのである。

 また、5章20節の言葉に基づいてこのようなことを考えてしまう信仰者があるのではないか。長い信仰生活を送っていると、しばしばスランプが生じてしまう。信仰生活が負担に感じられるようになる。救いの確かさがない。救われているという喜びが感じられない。この際、思い切って神から離れて生活してみたら罪が分かり罪赦された実感も生まれ、喜びが感じられるのではないかと考えてしまうのである。放蕩息子のたとえの弟のような生き方をしたら、父親から離れて生きる悲惨さが分かり、父親のもとで生きる喜びを再確認できるかもしれない。しかし、パウロは言う。恵みの下に生きる信仰者には罪を犯して何か信仰のためになるものは全くない。そもそも不可能なのだと言う。

 

このお説教は録音から聞き起こしたものでなく原稿から書き起こしたものなので、実際に語られた説教からは落ちている事柄がある。

この言い方は、誤解される可能性のあることに気づいている」ーこの部分なども簡略化されている。

実際は、「パウロは?(この部分きちんと記憶していない)ではなく、むしろ敏感な人でした」という風に語っておられた。だから誤解される可能性があることに気づいていた、というのである。

パウロの思考は弁証法的だと思えた。

このお説教は「信仰義認」について語っておられる説教だと思うが、「信仰義認」というのは弁証法的捉えが必要になるのではないかと思える。

 

 

Ⅱ 罪の奴隷か義の奴隷か

 パウロは言う。人間には二つの人生しかないと。一つは、「罪に仕える奴隷となって死に至る」人生であり、もう一つは、「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」人生である。ここには、深い現実的人間理解がある。わたしたち人間は、絶対的自由を持っていない。それをもっているのは神のみである。つまり、わたしたち人間は、何かあるいは誰かを主人として生きる他ない存在、奴隷なのである。パウロは、問題点を明確にするために奴隷というきつい言葉を遣っている。

 外面的に見ると、わたしたちには種々様々の人生があるように思われる。特に、若い方々には、その前途にいろんな可能性が開かれているように思われる。そして、思いのままに生きることが可能かもしれない。しかし、人生も終わりに近づいて、それまでを振り返ったとき、何のために生きて来たのだろうと悔い、そして生きる目的にしてきたものが何とつまらないものだったと気づかされるであろう。金持ちの青年の話が思い出される。マタイによる福音書19:16〜22。彼には若さがあり、何よりも財産がある。自分の前途にはどんな道でも開かれているように思えた。しかし、主イエスによってお金の奴隷であることを思い知らされた。

 大分前、ある老人ホームにご婦人を見舞ったことがある。七夕のシーズンで、いくつかの短冊が結ばれた飾りがロビーにあった。短冊のいくつかを見たら「お金持ちになりたい」、「若返りたい」というのがあったが、その中に「悔い多い人生から楽しい人生に転換したい」というのがあった。この方は、若い時には、前途にいろいろの可能性を見ながら、その中で選び取って生きて来たのであろう。しかし、老人になってみて悔い多い人生であったと認めざるを得なかった。これが、多くの人間の現実ではないだろうか。パウロは、人生にはいろいろの種類があるように思われるが二つしかないと言い切るのである。

 

何かあるいは誰かを主人として生きる他ない存在」ー これは、統合失調気質の根本に横たわる問題だとずっと思ってきた。しかし、それは人間全般の根本問題なのだと改めて思わされた。

私たちが生きるためのアイデンティティは自分以外の何かあるいは誰かに依るのだ、と。

永遠に失われない何か?若い頃からずっとそれを求めていた。

 

 

Ⅲ 義の奴隷とされた

 わたしたち信仰者は、二つしかない人生のなかで義の奴隷としての人生を許された。どのような仕方でそうなったかと言えば、17節に記されている通りである。「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心からしたがうようになって」だと言っている。この「教えの規範」とは、今でいう信仰告白である。代々の信仰者が信じ、受け入れて来た信仰内容を自分も受け入れて、一つ信仰に連なり義の奴隷となったのである。いわゆるキリストの十字架と復活に与る洗礼である。これは、私たちの結果のように思われるかもしれないが、そうではない。「神に感謝します」(6:17)とある通り、神のみわざなのである。

 

この日は聖餐式が執行されたので、説教の後、使徒信条だけでなく信仰告白全文を告白した。

以下に抜粋引用する。

神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみなキリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます。

「救いの御業を信じる人はみな」と告白されている。するとこれは私たちの信仰かと思うが、その前に「神に選ばれて」と言われている。私たちの信仰に先だって「神の選びの業」があるのだ。

説教の中で、「これは、私たちの結果のように思われるかもしれないが、そうではない。「神に感謝します」(6:17)とある通り、神のみわざなのである」と語られているように。

抜粋した信仰告白のこの部分で最も大事なのが、「キリストにあって義と認められ」という部分だと思う。

そして「伝えられた教えの規範」の「規範」とはイエス・キリストに他ならない、と私は受け取った。

 

 

Ⅳ 神に従順に仕える奴隷

 さて、使徒パウロは、私たちの人生は二者択一だということを強調し、「奴隷」という言葉を遣った。主イエスも、同様の言い方をされている。「だれでも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6:24)。

 パウロは、信仰者についても奴隷と言いつつ、罪の奴隷には使っていない言葉を加えている。「従順に仕える」である。奴隷の生活は、主人がどういう主人であるかによって全く違ってくる。パウロの時代に奴隷制度があった。だからよく見て知っているのである。いわゆる奴隷根性という言葉がある。ただ主人が怖くて、罰が恐ろしいから我慢して仕えていることを言う。

 しかし、わたしたち信仰者は同じ奴隷でも最も愛してくださっている主人だから喜んで仕える義の奴隷である。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

私が私であるのは、私によるのではなく、また私を他者とのかかわりの中においたのも私ではない。私は他者とのかかわりの中で自己自身であるべく、置かれた存在なのである。(八木誠一=著『キリストとイエス』(講談社現代新書)p51)