風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「響きわたる主の御言葉」(テサロニケの信徒への手紙一 1:4~8)(追記あり)

今日は、応援の先生によって礼拝が行われた。

以下に、お説教の抜粋を掲載させて頂きます。

 

「響きわたる主の御言葉」

  2023年3月26日(日) 受難節第5主日

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙Ⅰ  1章4節~8節

(略)

ですから、テサロニケ教会から発せられた主の言葉は、ギリシャの北から南までの全土に響き渡っていたのであります。ちなみに、パウロはこの手紙をコリントで書いていると思われます。誕生したばかりで、しかも無牧であり、信仰歴の長い信徒もおらず、迫害に晒されている教会が福音伝道の拠点となって、福音を宣べ伝えているのです。本日は、なぜ生まれたばかりで無牧となったテサロニケ教会がその様な働きが出来ているのかについて考えてみたいと思います。

なお、福音という言葉を教会以外でもよく耳にしますが、この福音という言葉の意味を誤解のないように確認しておきたいと思います。福音は主イエス・キリストの言葉と行動により啓示された神の救いの教えであります。パウロは福音をキリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、3日目に復活したこと、使徒たちに現れたこと、として定義し、この「福音」は信じる者に救いを与える神の力であるとされている、と教えています。ひとことで言えば、キリストの十字架の死と復活による罪からの救いです。

(略)

 ところで、パウロたちが彼らに語り聞かせた言葉は人の言葉でありますので本来は何の力もありません。しかし、その言葉は聖霊の力によってテサロニケの信徒たちの中に浸透し、生きて働いたのであります。彼らにおいて福音が現実の出来事として実現したのであります。そして今度は彼ら自身が語る言葉が聖霊の力によって主の言葉として発信されて響き渡っていったのです。聖霊の力が働いて下さらないと人の語る言葉は人の言葉のままであります。しかし、ひとたび聖霊が働いて下さると、神の御言葉として生きて働くのです。

 これは現代の礼拝においても全く同じであります。礼拝において語られる説教は人の言葉ですが、そこに聖霊なる神さまが働き、人の言葉を用いて活かしてくださいます。ですから、人の語る言葉であるにも関わらず、主の御言葉を待ち望む聴衆の耳に、心に響き、聴く人の内で福音の出来事を現実のものとして実現して下さるのであります。

(略)

たとえ私のような者の下手で拙い説教者であっても、教会の皆さんの祈りに支えられ、そして何よりも今ここに聖霊が働いて下さり、舌足らずで未熟で不完全な説教であっても、多くの欠けを補い、それを用いて下さるということを確信していますので、恐れながらも、ここに立ってこうして語ることが出来るのであります。このような自分を用いて下さる神さまに感謝しています。

 テサロニケ教会でも同じで、特別に秀でた説教者がおり、感動的に雄弁に語られたから、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となったのではなく、どの様な人がどの様に語ったのかではなく、自分たちの群れである教会で語られた御言葉を、聖霊によるお働きによって受け入れ、信仰に生きる喜びを証しし、神さまに従っている彼らの信仰生活が、他の地域においても次々と新たな信仰を生み出していったという事だと思います。

 テサロニケ教会は生まれたばかりであるにも関わらず無牧となり迫害にもあっているのですが、「神に対する彼らの信仰が至るところに伝えられ、すべての信者の模範となっている」、と聞きますとテサロニケ教会の働きは驚きであり、奇跡のように思えます。私たちの信仰生活とかけ離れた特別なものの様に思えます。しかし、彼らが優れていたから、或いは桁外れに頑張って努力したから、特別に恵みが与えられたという言う訳ではなく、その恵みは誰に対しても、私たちにも与えられている恵みと同じものであります。

 テサロニケ教会の信徒たちが、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを、パウロは神さまに感謝しています。彼らがそのように生きることが出来る理由は、神さまに愛されているからだと4節でパウロは述べています。

(略)

つまり、パウロは、福音が自分自身の説教や解説の言葉の力によってではなく、聖霊」なる神さまの「力」によって、テサロニケ教会の信徒たちの中に深く浸透して行ったと確信しているのです。伝道者であるパウロたちの力によってではなく、5節にあるように「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」、福音がテサロニケ教会の信徒たちを捉えたのであり、そのことで、テサロニケ教会の信徒たちが神に愛され神に選ばれているということをパウロ確信させられたのです。

 福音を告知らせる言葉は、もちろん伝道者が説教などにおいて語るのでありますが、その言葉が語られるときに聖霊なる神さまの力によって、言葉が神の御言葉に変えられるのです。ですから、礼拝で語られる説教は聖霊の力によって会衆の中で御言葉として生きて働くのであり、聖霊が働いて下さらなければ全く同じ言葉を語ったとしても、それは単なる人の虚しい言葉でしかありません。繰り返して申しますが、パウロ「力と、聖霊と、強い確信とによった」と言っていますように、聖霊なる神さまの力が働いて、福音が神さまの御業としてテサロニケ教会の信徒たちの中に浸透するように受け入れられていることを確信したのです。そうでありますので伝道者であるパウロたちは強い確信によって、御言葉を取り継ぎ、必死になって語ったのであります。

(略)

 そして、パウロは6節で「喜びをもって御言葉を受け入れ」という言葉に引き続いて「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者」になった、と言っています。「わたしたちに倣う者」になる、あるいはなりなさいと聞きますと、私を見習いなさい、私を模範としなさい、と聞こえてしまいますが、そうではありません。

 これは一言でいうと、パウロたちと同じ様にパウロたちが倣っている主に従うことであります。したがいまして、福音を伝える役割を負った伝道者も福音を受ける信徒たちも共に主に倣う者になるということです。

 パウロたちも突然伝道者になったわけではありません。キリスト者であれば誰でもそうですが、最初は誰かから福音を聞くのです。その御言葉によって信仰の養いを受けるのであります。パウロの場合、劇的な回心をしたのですが、それでも最初は主の言葉を聞き、教えられたのです。聖霊の力による働きによって御言葉を喜びを持って受け入れ、その過程でイエス・キリストの福音が私たちの内で現実の出来事となり、そしてキリスト者となるのです。言い方を変えれば、イエス・キリストの弟子、イエス・キリストに倣う者にされるのです。こうしてテサロニケ教会の信徒たちはイエス・キリスト愛と恵みによって新たな者へと変えられていったのであります。こうして、彼らは「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」。

 

私たちは、自分の力に依り頼んで、いとも簡単に律法主義に陥るものである。

先ず、自分の前に神を先立てる必要がある。

繰り返し、繰り返し、聖霊の力によって」と語られるお説教をお聴きして軌道修正して頂きました。

 

myrtus77.hatenablog.com

葛原妙子は自らの罪の苦しみの中で、キリストが負われた苦しみを見、老いと病の中で、全てを負って先立たれるキリストを見ていたと言える。

「先づ老いたまふ」「樹によりたまふ」「箱にいましぬ」ーここに、妙子の信仰が言い表されている。

 

お説教の最後は次のように締めくくられた。

 今日の聖書の箇所に記されているテサロニケ教会の出来事は、特殊な例ではないと思います。ここにいる私たちも、同じ福音を聞き、聖霊の働きがあり、福音の出来事が私たちの中に現実のものとなり、同じ恵みを受けているはずです。そして、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の赦しと永遠の命の約束を与えられているのであります。毎週、イエス・キリストを頭とする教会の礼拝において、御言葉が語られています。その時、聖霊が豊かに働いて下さっているのであります。たとえ、苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れることが出来るのであります。そして、主イエス・キリストに倣うものとなり、テサロニケ教会と同じ様に、今この群れの一人ひとりの中にイエス・キリストの福音の出来事が起こされているはずです。

 そして、私たちがキリストに倣う者に変えられたのであれば、その恵みを誰かと分かち合いたくなるのです。この恵みは幾ら多くの人に分け与えても減るものではありません。また、福音は一箇所で留まることなく、人から人へと受け渡されたがっています。

 ですから、主の言葉がこの群れからも響き渡っていると確信しています。その響きは聖書に登場するテサロニケ教会のように大きな響きの時もあれば、微かな響きになる時もあるかもしれません。その時々で変化すると思います。響かせて下さるのは神さまです。響きの大小で教会の優劣が決まるものではないはずです。響いている事に価値があります。たとえ微かであっても途切れることなく、美しい音色で主の言葉を響かせ続ける教会、その様な群れであり続けたいと思います。

 

 

以下は、昨日お聴きしたもう一つのお説教から、

「捨てられた石」(ルカによる福音書20章9~19節)

https://drive.google.com/file/d/1k5I76MYJHeUWtdQBnzZfBNlTXjDLlSUS/view

(4:45~)今日の聖書の箇所ですけれども、15節で「そして息子をぶどう園の外に放り出し殺してしまった。さてぶどう園の主人は農夫達にどうするだろうか?戻ってきてこの農夫達を殺し、ぶどう園を他の人達に与えるに違いない」と。この「違いない」というのは、神さまの「こうなる」ということであります。

正に、他の人達にこのぶどう園は与えられています。私たちにこのぶどう園は与えられています。今、ここにいる私たちにこのぶどう園が与えられているということです。

日頃、この先生は、説教とは「罪の赦しの宣言だと語っておられます。

 

 

 

今日の花、踊り場に、

白いレンテンローズ。

玄関には真紅のチューリップと。