風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

お聴きした二つの説教と・・

 3つ目は「希望を持って忍耐している」という言葉です。この「忍耐」という言葉は受動的で消極的な意味に思われそうですが、そうではなく能動的で積極的であり持続的で耐久性のある意味を有します。また、この「希望」という言葉は、こうなれば良いとか、嬉しいとか、こうなって欲しいという願望や夢の様に、この世における楽観的なことや快楽的なことを意味しません。この希望はイエス・キリストに対する希望というべきであります。そしてこの希望はテサロニケの信徒への手紙一の中心的な主題であると言えます。それはこの手紙を最後まで読めば分かるのですが、まず、1章10節にそのことが触れられています。「どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったか」とあります。それは御子が天から来られるのを待ち望むという希望です。イエス・キリストが再び来られること、即ちイエス・キリストの再臨です。キリスト者であれば誰もがこの希望を持っているはずです。この希望は確かな希望で必ず実現する希望です。

(略)

しかし、私たち人間は肉の体を持ち、肉の思いに支配され、聖霊に従い切ることが出来ず、罪を拭い切ることができないのです。ですから、私たちは肉の思いと神の霊の導きの中で葛藤しており、信仰生活において罪を逃れたいと思いながらもそうはならないのです。ですから私たちは罪ありながらも毎週教会へ招かれ罪を告白し、罪を赦され、命の御言葉を与えられ、新たにされるのです。その私たちの罪が完全に振り拭われるのはキリストの再臨の時です。その時、神の国が完全に到来し、神さまのご支配、神の国が私たちの目に明らかになるのです。そうでありますので、主イエスの1度目の到来と2度目の到来である再臨までの途上を歩む私たちの肉の目には主イエスのご支配も恵みも、何も見ることができません。だから不安になったり迷いが生じたりするのであります。(説教「信仰、愛、希望」(テサロニケの信徒への手紙一1:2~4)より抜粋)

 

 

https://drive.google.com/file/d/1o71opFu-EMtpVRAYyAxxuaOwmM-a5pLQ/view

(11:42~)しかし、この世を生きるということは、正に苦しみの中を生きるということなんですね。私たちがドンチャン騒ぎしていてもですね…(抜粋)

 

この部分をお聴きしていて、泣けた。

 

(14:30~)ここでは笑えた。小会でお菓子出すの止めた方がいいかな?と思っちゃった(笑)。

 

 

 わたしの心の中でうごめくキリスト教徒としての希望は、物質ではなくて、人間だ。(略)そうではなくて、ただ人間なのだ。神の子でありながら、その意志を手探りで求め続け、しかも、われわれが死に向かって進む間も生を貫き、かなたで自らいわれたごとく、われわれのために場所を用意されているイエス・キリストの示されるあの人間なのだ。(ポール・トゥルニェ=著『苦悩』より)

このところ、「苦難」について考えていた。本の片付けをしながら、そう言えば、と思い、取り出してきた。着地点を読めば、もう中身は読まなくても良い、と思った。

 

 

 

受難節第一主日