風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

(続)外側にいた者が内側へと入れられる、救いの大転換がイエスキリストによって起こる。

エスが救い主として業を始められたとき,時は満ち,神の国は近づいた。イエス キリストによって神の国は到来する。イエス キリストに従うところに神の国,神のご支配が現れる。神の国の秘密はイエス キリストご自身であり神の国とイエス キリストを分けることはできない。
聖書の教えは,人生を豊かにする知恵や上手に生きていくためのコツといったものではない。聖書の言葉はイエス キリストを指し示し,イエス キリストに従うことを求めている。

(略)

外の人々にはすべてがたとえで示される,というのはイエスに従わない人には教えてやらないというのではない。イエスはあらゆる人々の前で語られる。自分を憎み,殺そうとする者たちにもお語りになる。これは神の救いの恵みが罪による頑なさを一層明らかにすることを表している。

(略)

神の国の秘密であり奥義であるイエス キリストは,わたしたちのところに来ておられる。誰でも教会に来ることができるし,大人にも子どもにも語られている。外に立ったままですべてをたとえにしてしまうのではなく,イエスに従って歩み出すならば,イエスご自身が罪から解き放ってくださり,神のご支配のもと神の愛に生きる恵みを味わわせてくださる。救いに生きる新しい人生が差し出されている。
(マルコによる福音書4:10~12からの説教抜粋)

 

昨日、外側にいた者が内側へと入れられる、救いの大転換がイエスキリストによって起こる。で私は、「イエスイザヤ書から引用して語ったのであるなら、マルコによる福音書のこの箇所は新共同訳の方が正しいと考えられる」と書いた。しかし、上に抜粋した夫の過去の説教を読んで、こう結論づけるのは早急であると思えた。

 

ここで語られる「種を蒔く人」のたとえは、湖の舟の上から湖畔にいる外側の人々に向けてイエスが語ったたとえなのである。イエスが到来した今、「神の国の秘密」はあらゆる人々に向けて語られ始めたと言える。

しかし、外の人々は、「『彼らは見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず
立ち帰って赦されることがない』ため」(マルコによる福音書4:12 聖書協会共同訳)に、たとえで示されるというのである。

 

夫は教会で使用している聖書の訳に準じて語っていたから、この時は新共同訳に従って語ったはずである。だからここで、「これは神の救いの恵みが罪による頑なさを一層明らかにすることを表している」という一節を挿入したと思われる。これは引用されたイザヤ書(6章)が示している事柄である。

 

しかし、聖書協会共同訳の解釈をとるならば、「見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず 立ち帰って赦されることがない」外の人にたとえで話すのは、難解なたとえの前で立ち止まって咀嚼し、外の人々が「立ち帰って赦される」ことをイエスが願っておられるためだと受け取ることができる。

 

実際、この「種を蒔く人」のたとえでは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、…。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、…。ほかの種は茨の中に落ちた。…。また、ほかの種は、良い土地に落ち、…」(マルコによる福音書4:3~8)と、「落ちた」ということが繰り返されている。

旧約の時代にはイスラエルにだけ語られていたかに見えた福音(神の国の秘義)がイエスの到来と共に、あらゆるところへと蒔かれるようになったのである。

ただ、ここではまだ完成されてはいない。だから、積極的に蒔かれたのではなく、「落ちた」と表現されていると考えられる。

 

ここで、昨日抜粋した夫の説教を再度引用しよう。

実りに差はあるが,必ず実る。なぜならこの種はイエス キリストそのものであり,キリストの命によって実るから。「はっきり言っておく。一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)(マルコによる福音書4:1~20からの説教抜粋)

 

キリストは、地に落ちて死に、多くの実を結ばせるために私たちのところへと来てくださった。

外側にいた者が内側へと入れられる「救いの大転換」が、イエスキリストの十字架の死と復活によって起こるのである。