風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

外側にいた者が内側へと入れられる、救いの大転換がイエスキリストによって起こる。

エスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らは見るには見るが、認めず
聞くには聞くが、悟らず
立ち帰って赦されることがない』ためである。
(マルコによる福音書4:10~12 聖書協会共同訳)

 

マルコによる福音書4章12節の聖書協会共同訳の訳は口語訳の解釈へと戻っているように思える。「立ち帰って赦されることがない』ためである」というこの訳は、何か優しげで分かりやすいように思える。が、

 

エスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。」(マルコによる福音書4:10~12 新共同訳)

 

「こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」という、「ようになる」という言葉が挿入された新共同訳のこの訳は、不可解で受け容れがたく思える。

ここの部分は、イザヤ書から引用された言葉であるが、新共同訳も聖書協会共同訳も同じような内容になっている。

 

主は言われた。
「行って、この民に語りなさい。
『よく聞け、しかし、悟ってはならない。
よく見よ、しかし、理解してはならない』と。
この民の心を鈍くし
耳を遠くし、目を閉ざしなさい。
目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず
立ち帰って癒やされることのないように。」(イザヤ書6:9~10 聖書協会共同訳)

 

主は言われた。「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ書6:9~10 新共同訳)

 

エスイザヤ書から引用して語ったのであるなら、マルコによる福音書のこの箇所は新共同訳の方が正しいと考えられる。

 

イザヤ書のこの箇所は以下へと続く。

 

わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」

主は答えられた。

「町々が崩れ去って、住む者もなく

家々には人影もなく

大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

主は人を遠くへ移される。

国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。

なお、そこに十分の一が残るが

それも焼き尽くされる。

切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。

しかし、それでも切り株が残る。

その切り株とは聖なる種子である。(イザヤ書6:11~13 新共同訳)

 

イザヤ書6章のこれらの御言葉は、葛原妙子の短歌を読み解こうとした時に、散々考えぬいた御言葉であった。

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夫が過去にしたマルコによる福音書4章1節から20節の説教を見ると、以下のように語った部分があった。

聴く者は「わたしはどんな土地であろうか」と問うことになる。種そのものは同じ,次に種の蒔き方それ自体にも差はない。どの種も「落ちた」と同じ表現。どこに違いがあるかと言えば,落ちた種を受け止める土地。空っぽの種はない。実りに差はあるが,必ず実る。なぜならこの種はイエス キリストそのものであり,キリストの命によって実るから。「はっきり言っておく。一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)(マルコによる福音書4:1~20からの説教抜粋)

 

「この種はイエス キリストそのもの」だと言っているのだ。

イザヤ書「聖なる種子」もイエスキリストを指している。

 

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。(ローマ人への手紙11:32 口語訳)

 

20代の頃、初めて新約聖書を読んだとき、このローマ人への手紙の言葉に捉えられた。

そして、62歳の誕生日を迎えた今日、イザヤ書の御言葉がこのローマ人への手紙の御言葉へと繋がっていった。

切り倒された切り株から生え出たイエスキリストの到来によって、外側にいた者が内側へと入れられる、救いの大転換が起こったのである。

外にいた私たちが、今、救いの内側へと入れられている。