風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「おまえが多くを愛したことにめでて」― ドストエフスキー『罪と罰』3

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なんだ。その御一人が裁きの日にいらしって、おたずねになる。「意地のわるい肺病やみの継母のために、年端も行かぬ他人の子らのために、おのれを売った娘はどこかな? 地上のおのれの父親を、ならず者の酔っぱらいの父親を、そのけだもののような所行もおそれず、哀れんでやった娘はどこかな?」そして、こうおっしゃる。「来るがよい! わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・いまは、おまえが多くを愛したことにめでて、おまえの多くの罪も赦されよう・・・・・」そして、うちのソーニャを赦してくださる、赦してくださる、おれにはもう、赦してくださることがわかっているんだ・・・・・さっき、あの子のところへ行ったとき、おれはそれを胸に感じたんだ!(岩波文庫罪と罰 上』)

 

ここの「多くを愛したことにめでて」という部分に訳注がついている。以下、

 

ルカ福音書七章にパリサイ人シモンの家で、イエスの足に接吻し、香油を塗った罪の女を指して、イエスが「おまえの多くの罪は赦される、多くを愛したからである」と言われたと述べられている。(岩波文庫罪と罰 上』訳注より)

 

しかしこの訳注の聖書の訳は微妙である。

 

ここは、イエスを食事に招いたパリサイ人シモンの家でイエスに香油を塗った女について、シモンが心の中で思ったことに対してイエスが譬え話で語られる部分が前段にあるのである。以下、

 

エスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。(ルカによる福音書7:41~43)

 

この事が語られた後の言葉であるから、「多くを愛したから、おまえの多くの罪は赦される」とするのは、おかしいだろう。多く赦されていると分かったからこそ多く愛したのだと語られているのだから。

 

この部分の訳は口語訳が分かりやすいように思われる。

 

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。(ルカによる福音書7:47)

 

ここの箇所は、私たちの心情として、「お前は多く愛したから多く赦される」と思いたいところだと言える。

ドストエフスキーが、ここをマルメラードフの言葉として語らせている点から見ても、私たち人間の、また父親としてのマルメラードフの願望を表していると取れるように思う。

 

しかし、ドストエフスキーが描き出しているのはただそれだけのことではないだろう。

 

先に引用したマルメラードフの語りの最初の部分で、「世の万人を理解してくださった御一人なる裁き人」とキリストを示し、その方がソーニャを訪ね求め「来るがよい! わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・」とおっしゃる、と語らせている。

ここの、強調して繰り返される「一度赦した」は非常に重要な言葉だと言える。この言葉によって、ドストエフスキーがキリストの贖罪の一回性を示していると考えられるからだ。

 

この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。(ヘブライ人への手紙7:27)

 

キリストは・・雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブライ人へ手紙9:11,12)

 

キリストの贖いは、ご自身をただ一度献げたことで完成されたというのだ。

 

ここで、マルメラードフの言う「御一人なるその方」「その御一人」を父なる神とするとどうなるだろうか?キリストが贖いの献げ物であるなら、罪を赦すのは父なる神である。とすると、「わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・」と語っているのは、父なる神だと言うことが出来るのではないだろうか?マルメラードフの願望、あるいは確信としてソーニャに語られるこの言葉は、父なる神からキリストに向けられたものとして描いている可能性も捨てきれない。

 

 

また、ルカによる福音書で、この女は多く愛した」と言われている愛は、イエスに向けられた愛であった。すなわち、「イエスの足を涙で洗い、イエスの足に接吻し、香油を塗る」というイエスに向けた愛であったのだ。しかしソーニャの行いは、マルメラードフや継母やその子ども達に向けられたものだった。

 

ここで私は次の言葉を思い起こす。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイによる福音書10:42)

それから、次の御言葉も、

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタイによる福音書22:39 口語訳)

「第二もこれと同様である」と訳しているのは口語訳だけで、他は「第二もこれと同じように重要である」という訳がなされているのだが、私は、口語訳が良いと考える。

愛するというのは、神だけを愛するのでも人だけを愛するのでも完結されないものだと思うからだ。神を愛することと人を愛することが同じ一つのこととしてある場合においてだけ、愛するという行為が成り立つと思うからである。