風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「おれはな・・悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ」― ドストエフスキー『罪と罰』4

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」

 

ドストエフスキーの日記に記されているというこの言葉の最後の部分、「そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」は、マルメラードフの語りの次の言葉に表されているように思う。

 

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なんだ。(『罪と罰』)

 

マルメラードフのこの語りからティリッヒの言葉、「神は存在の根柢である」(八木誠一『キリストとイエス』)を思い浮かべた。

悲しみと涙を味わい尽くしたところで、万人に哀れみをたれ、万人を理解してくださる方を見出すのだ。

そしてその時、私たちの目は、悲しみの世から「わたしはすでに一度おまえを赦した」と言ってくださる方へと転じていくのである。

 

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。(コリントの信徒への手紙二7:10 新共同訳)

 

悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。

賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。(伝道の書7:2,4)

 

涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(詩篇126:5,6)

 

悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。(マタイによる福音書5:4)