風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

本物か、偽物か?

オリンピックに関連して色々とゴタゴタが起きているようだ。

過去に障害者を虐めていたということで開会式の楽曲担当から外れたり、ホロコーストをコントのネタにしていたということでディレクターを解任されたり、と・・。

実際にイジメをしていたという人間と、コントでユダヤ人虐殺をネタにしたという人間が同じように取り扱われているという点でも興味深い事柄なのだが、過去にしたことだと擁護されたために物議をかもしているという点でも又、色々と考えさせられる事件である。

 

ところで新共同訳聖書では、ホセア書6章の冒頭に「偽りの悔い改め」という題が付けられている。私はこの題は間違っていると考えているが、「悔い改め」にも本物と偽物があるかも知れないということでは考えさせられるところだと思う。

 

例えば、文学作品などで、本物と偽物はどこで見分けを付けるのだろう、ということを思わされる。同じようにホロコーストを扱った文学作品の中に高く評価されるものもあるのではないだろうか?

 

歌人葛原妙子は、第五歌集『原牛』の「あとがき」で、「短歌に、今日の中に含まれる私を、どう歌いこめるかということについて僅かながら苦しんできたと信じる・・」と記している。

本物か偽物かの違いは、この一点に尽きるのではないか、と私は考える。

例えば、ドストエフスキーもガルシア・マルケスも作品の中に自分自身を塗り込めているだろう。『罪と罰』の中で描かれるラスコーリニコフの苦しみも、マルメラードフの哀しみも、ドストエフスキー自身のものである。

 

〈 聖書を読む 〉ホセア書5~6章                 

 

     「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
      主は我々を引き裂かれたが、いやし
      我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
      二日の後、主は我々を生かし
      三日目に、立ち上がらせてくださる。
      我々は御前に生きる。
      我々は主を知ろう。
      主を知ることを追い求めよう。
      主は曙の光のように必ず現れ
      降り注ぐ雨のように
      大地を潤す春雨のように
        我々を訪れてくださる。」(ホセア書6:1~3)

 

新共同訳と新しい聖書協会共同訳では、この箇所の冒頭に「偽りの悔い改め」と題が付けられている。発見された元々の聖書の写本にはないものなので、こういった題には訳者の解釈が入っていると牧師から聞いている。

 

6章の前、5章15節では、「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め 苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」という直接的な主の言葉が記されている。

そして5章10節では、「わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ」と語っておられる。これは、6章3節の「降り注ぐ雨のように」に呼応している。

新改訳(2017年版)では、「大雨のように私たちのところに来られる」となっている。

口語訳では、「冬の雨のように、わたしたちに臨み」である。

これは、激しい裁きの雨である。

 

2節の「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる」は、ホセアのイエス・キリストの十字架と復活の預言だと言えるだろう。

また、3節の「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」は、4節から再び始まる主の直接的な言葉の中の「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく 神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)に呼応している。

 

これらを考え合わせると、この部分は「偽りの悔い改め」等ではなく、直接的な主の言葉を受けての、ホセアの神の民への呼びかけであろうと私は捉える。

 

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」

 

どのような主を知るのか?

 

「三日目に、立ち上がらせてくださる」主であり、「大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」主を、知るのだ。

 

説教もまた、自分自身を語り込めるのでなければ、魂に響かないのではないか、と私は思う。

自分を罪人側には置かず、高みから神が罪人を裁かれると語るなら、それは偽りの説教となるだろう。