風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

2019-01-01から1年間の記事一覧

八木誠一『キリストとイエス』と − ドストエフスキー『罪と罰』

ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかったろうに! こんなことは何もなかったろうに!(岩波文庫『罪と罰 下』p348) 前の記事で小林秀雄の言葉と共にこの言葉を取りあげたが、この言…

「本当の苦しみは愛するものからやって来る」小林秀雄 - ドストエフスキー『罪と罰』と

「人間は憎悪し拒絶するもののためには苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやって来る」 小林秀雄 『ランボオⅢ』 この言葉がどういう文脈で語られているのか知りたくて、小林秀雄の本を図書館から借りてきた。 人間生活の愚劣と醜悪とを、彼のように極…

「主の愛と苦しみとを深く覚えさせてください」(聖餐式 祈り)- ドストエフスキー『罪と罰』と

恵み深い父なる神よ、わたしたちがなお罪人であったとき、主はまずわたしたちを愛して、わたしたちのために十字架につき、肉をさき、血を流して、罪の贖いを成しとげてくださったことを感謝します。どうかいま、わたしたちに、主の愛と苦しみとを深く覚えさ…

ムンクの『接吻』から - ドストエフスキー『罪と罰』

『叫び』で有名なムンクに、「吸血鬼」や「接吻」というタイトルの絵がある。 『接吻』と名付けられている絵は、接吻をしている男女の境界がほとんど溶解しているように見える。 そして柩のなかには、花に埋まるようにして、絹レースの純白の服を身につけ、…

自殺者の葬儀について - ドストエフスキー『罪と罰』から

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25:40) 私は「スヴィドリガイロフとユダ」で、「スヴィドリガイロフの言葉は、この聖書の言葉を逆転させた言葉だと言える。『キリストにした…

スヴィドリガイロフとユダ - ドストエフスキー『罪と罰』15

ところで、ここに五分利付公債で三千ルーブリあります。この金はあなたが、ご自分の分として納めてください。(略)この金はあなたにとって必要なはずです。なぜって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、これまでのような暮らしをつづけるのは、見苦しいことですし…

スヴィドリガイロフ - ドストエフスキー『罪と罰』14

で、私のいまの希望は、あなたのご紹介でアヴドーチヤさんにお目にかかって、なんならあなたもご同席のうえで、ルージン氏と結婚されても一文の得にもならない、いや、それどころか、むしろ損になることが見えすいているとご説明したい、これが第一なんです…

「あなたが汚した大地に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13

「お立ちなさい!(彼女は彼の肩をつかんだ。彼は、ほとんど呆気にとられて彼女を見つめながら、体を起こした)いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです、おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界におじぎを…

カチェリーナとラスコーリニコフ 2 - ドストエフスキー『罪と罰』12

あのひとが捜しているのは正義なんです・・・・・きよらかな人だから、何事にも正義があるはずだと心から信じていて、それを要求するんです(岩波文庫『罪と罰 中』p265) これはカチェリーナについてのソーニャの洞察であるが、カチェリーナとラスコーリニ…

カチェリーナとラスコーリニコフ 1 − ドストエフスキー『罪と罰』11

ラスコーリニコフとカチェリーナは似通った人間だと私には思える。 どちらも自分自身が窮乏しているというのは言うまでもないことだが、どちらも自分自身のことだけを考えているというような人間ではない。むしろ子どものことや、母や妹、ラスコーリニコフに…

『聴く』12月号

〈 聖書を読む 〉マタイによる福音書26章26節 イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、(マタイによる福音書26:26 口語訳) 10月の聖書を読む会は、〇〇〇さんの要望で「聖晩餐」について話すということでした…

ソーニャ 3 - ドストエフスキー『罪と罰』

「なぜあなたは、そんなありえないことを聞かれるんです?」ソーニャは嫌悪の色を浮かべて言った。 「すると、ルージンが生き残って、悪事を重ねたほうがいいんですね! あなたは、そんなことも決められないんですか?」 「だって、わたしには神さまの御心を…

グリム童話『手なし娘』とソーニャ - ドストエフスキー『罪と罰』

グリム童話に『手なし娘』という話がある。『手なし娘』のような話は日本の民話にもあるが、色々本を家に置いてきているので確認することが出来ない。 『手なし娘』というのは、相手が悪魔と気づかぬまま「金持ちにしてやろう」という口車に乗って父親が知ら…

鮮やかに怒りを発する人間

讃美歌342 2 ほまれにたからにつゆうごかされず おもいもことばもわが主にならいて こころに愛のみ宿さしめたまえ この歌詞を、長らく「愛をば」だと思い込んで口ずさんでいた。 あるとき、「愛のみ」だと気づいて驚いた。 だとすると、キリストの怒りを伴っ…

カチェリーナ - ドストエフスキー『罪と罰』10

マルメラードフは臨終前の苦しみに襲われていた。彼は、また自分の上にかがみ込んだカチェリーナから目を離そうとしなかった。彼はしきりと彼女に何か言いたそうにしていた。やっとのことで舌を動かし、不明瞭な言葉を押しだしながら、何か言いかけもした。…

ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』

「ぶったですって! 何をおっしゃるの! ああ、ぶったなんて! たとえぶったとしても、それがなんですの! だからどうだと言うんです! あなたは何も、何もご存じないんだわ・・・・・あれはふしあわせな人なんです、ええ、ほんとにふしあわせな! おまけに…

ソーニャ 1 − ドストエフスキー『罪と罰』

だが、ふいに彼は娘に気づいた。さげすまれ、ふみにじられ、けばけばしくめかしたてられ、そんな自分を恥じて、臨終の父に別れを告げる番がまわってくるのをただつつましく待っている娘。底知れない苦悩がありありと彼の顔に現れた。 「ソーニャ! 娘! 赦し…

ボンヘッファーも『罪と罰』を読んだのだろうか・・−ドストエフスキー『罪と罰』番外

ドゥーネチカはつづけた。「ふたつの悪のうち、より小さな悪を選びたいの。 (岩波文庫『罪と罰 中』p86) ボンヘッファーも『罪と罰』を読んだのだろうか・・? myrtus77.hatenablog.com

マルメラードフの死 - ドストエフスキー『罪と罰』9

通りの中ほどに、葦毛の駿馬を二頭つないだ粋な作りの旦那用の四輪馬車が止まっていた。だが乗り手はなく、馭者も馭者台から降りて、わきに立っていた。馬はくつわを押さえられていた。まわりは黒山のような人だかりで、いちばん前のほうに警官の姿が見えた…

エピローグから、しょうもない話 − ドストエフスキー『罪と罰』番外

『罪と罰』のエピローグにこんなことが書いてあった。 彼はもう長いこと病床にあった。だが、彼をくじいたのは、監獄生活の醜悪さでも、労役でも、食物でも、剃られた頭でも、ぼろのような服でもなかった。おお! こうした苦痛や責苦が彼にとって何だったろ…

エピローグから、ラスコーリニコフの見た夢 - ドストエフスキー『罪と罰』8

ラスコーリニコフの罪とは何だったろうか?もちろん二人の老婆を殺したという刑法にふれる犯罪はあったろう。しかしドストエフスキーが「罪」として捉えているのはそれでないのは明らかだ。 それはラスコーリニコフの見た夢に現れている。 以下にラスコーリ…

エピローグから、ソーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7

彼は苦しみながら、しきりとこの問いを自分に発したが、しかし、川のほとりに立ったあのときすでに、彼がおそらくは自分の内部に、自分の信念の中に、深刻な虚偽を予感したはずだということは理解できなかった。彼はまた、この予感こそが、彼の生涯における…

突然、エピローグへ − ドストエフスキー『罪と罰』6(訂正あり) 

彼女はいつもおずおずと手を差しのべた。ときには、彼にふり払われはすまいかと恐れるように、まったく手を出さないこともあった。彼は、いつもしぶしぶとその手を取り、いつも怒ったように彼女を迎え、ときには彼女が訪ねてきている間、かたくなに口をつぐ…

『聴く』11月号

〈 弱い自分に決意をさせてくれる讃美歌 〉 〇〇〇〇〇 主よ、終りまで仕えまつらん。 みそばはなれずおらせたまえ。 世のたたかいははげしくとも、 みはたのもとにおらせたまえ。 讃美歌338番 (本文は省略する) このところ長老、執事に原稿を依頼して、書…

「信じる」と言い切ることの出来ない私たちに

私は、決意の言葉というようなものをあまり信用しない。 だからドストエフスキーの言葉も、どういう言葉を語っていたとしても、「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である」という言葉以上に信用できるものはないと思っている…

汚らしいものばかりが・・ ― ドストエフスキー『罪と罰』5  

いいかい、ドゥーネチカ、ソーネチカの運命はね、ルージン氏といっしょになるきみの運命とくらべて、ひとつもけがらわしくはないんだぜ。(略)ルージン式の小ぎれいが、ソーネチカの小ぎれいと同じことで、いや、ことによると、もっとみにくい、不潔な、い…

「おれはな・・悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ」― ドストエフスキー『罪と罰』4

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟…

「おまえが多くを愛したことにめでて」― ドストエフスキー『罪と罰』3

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なん…

「高い天にはわたしのために執り成す方がいる」—(ヨブ記から考える)

お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。(ヨブ記42:7 新共同訳) 口語訳や新共同訳のように「わたしについて」という訳を採るとすれば、それは以下の箇所に最も表されていると思われる。 大地よ、わたしの血を覆うな…

私たちは親しい者が苦しんでいる姿を見ていることには耐えられないのだ —(ヨブ記から考える)

さて、ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだこのすべての災いを耳にし、それぞれの場所からやって来た。それは、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルである。彼らは互いに相談して、ヨブをいたわり慰めるためにやって来た。遠くから目を…