マルメラードフは臨終前の苦しみに襲われていた。彼は、また自分の上にかがみ込んだカチェリーナから目を離そうとしなかった。彼はしきりと彼女に何か言いたそうにしていた。やっとのことで舌を動かし、不明瞭な言葉を押しだしながら、何か言いかけもした。しかし、彼が自分に赦しを乞おうとしていることをすぐに察したカチェリーナは、すぐさま命令するような口調で彼をどなりつけた。
「黙ってなさいよ! 言わなくていいの!・・・・・・わかってますよ、あなたの言いたいことは!・・・・・」病人は口をつぐんだ。だが、そのとき、あたりをさまようような彼の視線が戸口に落ちて、ソーニャの姿が目にはいった・・・・・。(岩波文庫『罪と罰 上』p381)
『罪と罰』においてカチェリーナは、マルメラードフと共に最重要人物であろう。マルメラードフの臨終に際してソーニャを呼びにやったのもカチェリーナであった。
マルメラードフが馬車に轢かれて家に運び込まれる直前、カチェリーナは「なんであの飲んだくれ乞食は帰って来ないんだろう!」と呟く。
家に運び込まれて、もう助からないと分かった後に、司祭が「おそらく、思わぬ事故の原因となった人があなたに賠償を出してくれるでしょう、収入を失った分だけでも・・・・・」と言うと、「あなたには、わたしの言うことがわかっていないんです!」、「それに賠償することなんて何もないじゃありませんか。この人が、酔っぱらって、自分で馬の下に飛びこんだんですからね! 収入ですって? この人はね、収入どころか、苦労のたねになっただけなんですよ。飲んだくれめが、何もかも飲んじまったんだから。わたしたちのものを片はしから持ちだして、酒場へ運んでしまったんですよ、この子たちやわたしの一生を酒場に注ぎこんじまったんですよ! 死んでくれて、ありがたいくらいだ! かえって損が少なくなる!」(岩波文庫『罪と罰 上』p380)と叫ぶ。
アダムが罪に堕ちて以来、私たちはこのような罪の中を生きているのだ、と思わされる。
しかし、このカチェリーナの中にマルメラードフへの痛ましいほどの愛が表出されている。
罪の中で、愛し得ない罪の中で、愛そうと懸命になっている人間の姿を、ドストエフスキーは、このカチェリーナによって描き出したと言える。