風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャ 3 - ドストエフスキー『罪と罰』

「なぜあなたは、そんなありえないことを聞かれるんです?」ソーニャは嫌悪の色を浮かべて言った。

「すると、ルージンが生き残って、悪事を重ねたほうがいいんですね! あなたは、そんなことも決められないんですか?」

「だって、わたしには神さまの御心を知ることはできませんもの・・・・・それに、どうしてあなたは、聞いてはならないことを聞かれるんです? なんのためにそんな意味のない質問をなさるんです? それがわたしの解決にかかっているなんて、ありっこないじゃありませんか? だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないなんて、いったいだれがわたしを裁き手にしたのです?」(岩波文庫罪と罰 下』)

下巻で、ラスコーリニコフと対峙する場面のソーニャのこの言葉は、上巻でマルメラードフが語る以下の部分と対をなしている。

おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ。おれたちを哀れんでくださるのは、万人に哀れみをたれ、世の万人を理解してくださったあの方だけだ、御一人なるその方こそが、裁き人なんだ。その御一人が裁きの日にいらしって、おたずねになる。「意地のわるい肺病やみの継母のために、年端も行かぬ他人の子らのために、おのれを売った娘はどこかな? 地上のおのれの父親を、ならず者の酔っぱらいの父親を、そのけだもののような所行もおそれず、哀れんでやった娘はどこかな?」そして、こうおっしゃる。「来るがよい! わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・いまは、おまえが多くを愛したことにめでて、おまえの多くの罪も赦されよう・・・・・」そして、うちのソーニャを赦してくださる、赦してくださる、おれにはもう、赦してくださることがわかっているんだ・・・・・さっき、あの子のところへ行ったとき、おれはそれを胸に感じたんだ!(岩波文庫罪と罰 上』)

 

私は「『おまえが多く愛したことにめでて』― ドストエフスキー罪と罰』3」で、

ここで、マルメラードフの言う「御一人なるその方」、「その御一人」を父なる神とするとどうなるだろうか?キリストが贖いの献げ物であるなら、罪を赦すのは父なる神である。とすると、「わたしはすでに一度おまえを赦した・・・・・一度赦した・・・・・」と語っているのは、父なる神だと言うことが出来るのではないだろうか?マルメラードフの願望、あるいは確信としてソーニャに語られるこの言葉は、父なる神からキリストに向けられたものとして描いている可能性も捨てきれない。http://myrtus77.hatenablog.com/entry/2019/10/29/141024

と書いた。

 

下巻でソーニャの語る「いったいだれがわたしを裁き手にしたのです?」という言葉を読んで、上巻のマルメラードフが見出した「御一人なる裁き人」は父なる神を指していると理解した。そしてソーニャはやはりキリストとして描かれているだろう、と。

 

エピローグでラスコーリニコフが見る夢について、訳注では、「この夢はヨハネ黙示録の八章から十七章にかけての預言の言葉に対応している。つまり、「新しきエルサレム」が到来する以前の恐ろしい時代である」と記されているのだが、それが正しいなら、やはりソーニャはキリストとして描かれているということになる。

 

黙示録の8章から17章の間には興味深い言葉が記されている。

その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。(ヨハネの黙示録9:6 口語訳)

この夢を見る前、ラスコーリニコフは、なぜ自分は自殺しなかったかという考えに苦しめられていた、のである。

そしてこの夢を見た後に、ソーニャの足もとに身を投げる。

ここでは、ソーニャは再臨のキリストとして描かれているということだ。

そしてさらに言えば、このキリストの神は、3にして1である神なのである。

 

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