風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

エピローグから、ラスコーリニコフの見た夢 - ドストエフスキー『罪と罰』8

ラスコーリニコフの罪とは何だったろうか?もちろん二人の老婆を殺したという刑法にふれる犯罪はあったろう。しかしドストエフスキーが「罪」として捉えているのはそれでないのは明らかだ。

 

それはラスコーリニコフの見た夢に現れている。

 

以下にラスコーリニコフの見た夢の部分を引用する。

先ずは、岩波文庫罪と罰 』p117から。これは、まだラスコーリニコフが犯罪を犯す前の夢である。

 ラスコーリニコフが見たのは恐ろしい夢だった。幼年時代、まだ田舎の町にいたころの夢である。彼は七つほどで、ある祭りの日の夕方、父とふたりで町はずれを散歩していた。薄ぐもりのむし暑い日で、場所は彼の記憶に残っているのとそっくり同じだった。いや記憶のほうが、いま夢に現れたのより、はるかにぼけていた。(略)少年は父の手をにぎって、こわごわ酒場のほうをふり向いた。と、異様な光景に注意をひきつけられた。(略)酒場の入口の階段のわきには荷馬車が一台、それも奇妙な荷馬車がとまっていた。それは、大きな運送馬を何頭もつけて、商品や酒樽を運ぶのに使う大型の荷馬車だった。(略)ところがいまは、奇妙なことに、そんな大型の荷馬車に、ちっぽけな、やせこけた葦毛の百姓馬がつないである。それは、彼もよく見かけたものだが、薪や乾草を高々と積みあげられたり、とくに荷馬車がぬかるみやわだちの跡へはまりこんでしまったりすると、たちまちふうふうあえぎだすやくざ馬で、そんなときには百姓たちにこっぴどく鞭をくわされ、ときには鼻づらや目まで力まかせになぐりつけられるのがつねだった。少年はそういう光景を見るのがかわいそうでたまらず、よく泣きだしそうになっては、いつも母に窓辺から引きはなされたものだった。ところがそのとき、ふいにあたりがひどく騒がしくなった。赤や青のルバーシカの上に百姓外套をひっかけ、もうぐでんぐでんに酔っぱらった屈強な百姓たちが、酒場のなかから飛びだしてきた。歓声をあげ、歌をがなりたて、バラライカをかき鳴らしている。「乗れ、乗れ、みんな乗るんだ!」おそろしく首が太く、にんじんのように赤い脂ぎった顔をした、まだ若いひとりの百姓が叫んだ。「みんな乗せてってやらァ、乗りやがれ!」だがすぐさま笑い声と叫びがどっとひびいた。

 「そんなやせ馬に、引けてたまるかよ!」(岩波文庫罪と罰 上』より)

こうして百姓は斧で馬を殺すに到るのだが、この間の描写が6ページにわたっている。

 

ここの部分にさしかかった時、あまりに詰まらなくて読み飛ばそうかと思ったのだった。馬をキリストに見立てて罪に陥った人間達の狂気を描いているんだろ、つまらなすぎる、と。

 

しかしここには、ドストエフスキーの罪に関連する重大な指摘が提示されている。

 「お父さん、お父さん」少年は父に向かって叫んだ。「お父さん、あの人たち何をしているの! お父さん、かわいそうなお馬をぶっているよ!」

 「行こう、行こう!」父親は答えた。「酔っぱらいがわるさをしているのさ、ばかな人たちがね。さ、行こう、見るんじゃないよ!」そう言って彼を連れさろうとするが、少年はその手をふりほどき、夢中で馬のそばに走りよる。

(中略)

・・・・・少年は馬の横を駆けぬけ、その前へまわった。そして馬が目を、本当に目を打たれるのを見た! 少年は泣いていた。心臓がしめあげられ、涙が流れた。

(中略)

 しかし、哀れな少年はもうわれを忘れていた。わっと叫びながら、群衆をかき分けて葦毛のそばまで出て行くと、少年はもう息をしていない血まみれの鼻づらをかかえ、それに接吻した。目にも、唇にも接吻した・・・・・それから、ふいにはね起きると、小さな拳を固めて、逆上したようにミコールカにとびかかって行った。その瞬間、さっきから彼の後ろを追いまわしていた父親が、やっとのことで彼をつかまえ、群衆のなかから引きだした。(『罪と罰 上』)

 

幼年のラスコーリニコフは馬を殺す人間の側には入っていないのだ。罪は他の人間の側にあるのである。自分を罪の外に置いている。この時点では、ラスコーリニコフにとって罪とは自分以外の人間のもの、ということだ。

 

ところが、目をさましたラスコーリニコフは衝撃を受けてこう叫ぶ。

 「ああ!」と彼は叫んだ。「おれは本当に、本当に斧を手にして、頭をぶち割る気なんだろうか、あいつの脳天を血で染めるんだろうか・・・・・そして、まだなまあたたかい、べとべとする血のなかをすべりながら、錠をこわし、盗みをやり、がたがたふるえているんだろうか。全身血まみれの姿で身をかくすんだろうか・・・・・斧をもって・・・・・ああ、本当にそんなことを?」(『罪と罰 上』)

 

この葦毛の馬はキリストを象徴するとともに、これからラスコーリニコフが殺そうとしている高利貸しの老婆をも表している。

 「なあ、みんな、この葦毛のやつァ、てっきり二十からの婆さま馬だぜ!」

 「乗れってば、みんな送りとどけてやらァ」ミコールカはもう一度そう叫ぶと、まっ先に荷馬車にとび乗り、手綱をとって、馭者台にぬっくりとつっ立った。「栗毛のやつは、さっきマトヴェイと帰ったんだ」彼は荷馬車の上からどなった。「ところがよ、みんな、この婆ァ馬ときたら、こっちの気をくさくささせるだけでよ。まったくぶち殺してやりたくならァ、ただ飯ぐらいめ。おい、乗れってばよう!(『罪と罰 上』)

 

そしてこの後、ラスコーリニコフは老婆を斧で殺害する。

しかしラスコーリニコフは、馬の持ち主のように「気をくさくささせる」という理由だけで殺すわけではない。

 

一方、エピローグに描かれているラスコーリニコフの見た夢はこうである。

彼は大斎期の終わりと復活祭の一週間を、ずっと病院で過ごした。そろそろ回復しはじめてから、彼は、熱が出てうなされていた間の夢を思いだした。病気の間に彼はこんな夢を見た。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパへ向かって進むある恐ろしい、前代未聞の疫病の犠牲となるさだめになった。ごく少数の、何人かの選ばれた者を除いて、だれもが滅びなければならなかった。顕微鏡的な存在である新しい旋毛虫があらわれ、それが人間の体に寄生するのだった。しかもこの生物は、知力と意志を授けられた精霊であった。これに取りつかれた人びとは、たちまち憑かれたようになって発狂した。しかし、それに感染した人ほど人間が自分を聡明で、不動の真理をつかんでいると考えたことも、これまでにかつてなかった。人間はかつてこれほどまで、自分の判断、自分の学問上の結論、自分の道徳的な信念や信仰を不動のものと考えたことはなかった。いくつもの村が、いくつもの町が、民族が、それに感染して発狂していった。みなが不安にかられ、おたがいに理解しあえず、だれもが真理の担い手は自分ひとりであると考え、他人を見ては苦しみ、自分の胸をたたいたり、泣いたり、手をもみしだいたりした。だれをいかに裁くべきかも知らなかったし、何を悪と考え、何を善と考えるかについても意見がまとまらなかった。だれを罪とし、だれを無実とするかもわからなかった。人びとはまったく意味のない憎悪にかられて殺しあった。おたがいに相手をせめるために大軍となって集まったが、この軍隊はまだ行軍の途中で、突然殺し合いをはじめ、隊列はめちゃくちゃになり、兵士たちはたがいに襲いかかり、突きあい、斬りあい、嚙みあい、食いあった。町々では一日中警鐘が乱打され、みなが呼び集められたが、だれがなんのために呼んだのかはだれも知らず、ただみなが不安にかられていた。みなが自分の考えや、改良案をもちだして意見がまとまらないので、ごくありふれた日常の仕事も放棄された。農業も行われなくなった。人びとはあちこちに固まって、何ごとか協議し、もう分裂はすまいと誓うのだが、すぐさま、いま自分で決めたこととはまるでちがうことをはじめ、おたがいに相手を非難しあって、つかみ合い、斬合いになるのだった。火災が起こり、飢饉がはじまった。人も物もすべてが滅びていった。疫病はますます強まり、ますます広まっていった。全世界でこの災難を免れられるのは、新しい人間の種族と新しい生活をはじめ、大地を一新して浄化する使命を帯びた、数人の清い、選ばれた人たちだけだったが、だれひとり、どこにもこの人たちを見かけたものはなく、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった。(岩波文庫罪と罰 下』)

 

この部分には、以下のような訳注が付されている。

 

 この夢はヨハネ黙示録の八章から十七章にかけての預言の言葉に対応している。つまり、「新しきエルサレム」が到来する以前の恐ろしい時代である。ドストエフスキー所持の聖書には、黙示録のこの部分に「社会主義」、「文明」、「全人類」などの書きこみがあるという。(岩波文庫罪と罰 下』「訳注」より)

 

しかし私がこの部分を読んでまっ先に思い浮かべたのは、アダムの堕罪であり、バベルの崩壊であり、説教でしばしば語られる「それぞれの善悪の価値基準を持ってしまった人間世界」の末路であった。

ここを読んだ時、教会の内外にこのような光景が広がっているように思われた。

そしてさらに具体的に思い起こした事柄さえあった。STAP細胞事件の時のことだ。

 

ここではもうラスコーリニコフも罪の外にはいない。この夢の中ではラスコーリニコフも罪の側に入っている。

ドストエフスキーが描こうとした「罪」、そしてキリスト教でいうところの「罪」とはこういったものではないだろうか、と思う。

 

神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」(創世記2:16 聖書協会共同訳)

 

 

先日私は、続きを読まねばと思い、『罪と罰』の中、下巻を買ってきた。そして誘惑に負けてエピローグを先に読んでしまったのだが、これからしばらくは元に戻って、真面目に順番に続きを読んでいこうと思う。(笑)