風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

私たちは親しい者が苦しんでいる姿を見ていることには耐えられないのだ —(ヨブ記から考える)

 さて、ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだこのすべての災いを耳にし、それぞれの場所からやって来た。それは、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルである。彼らは互いに相談して、ヨブをいたわり慰めるためにやって来た。遠くから目を上げて見ると、それがヨブであると見分けることもできなかった。彼らは声をあげて泣き、それぞれ上着を引き裂き、天に向かって塵をまいて自分の頭の上に散らした。彼らは七日七夜、ヨブと一緒に地面に座っていたが、その苦痛が甚だしく大きいのを見て、話しかける者は一人もいなかった。(ヨブ記2:11~13 聖書協会共同訳)

けれどこの後、ヨブの友人達は入れ替わり立ち替わりヨブに話しかけ、教え、説得しようとする。

 

私たちは、為す術のないまま、親しい者が苦しんでいる姿を見ていることには耐えられないのだ。

 

しかし、神はそのことを良しとされず、ヨブの友人達をお叱りになる。

主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。(ヨブ記42:7)

 

この部分は口語訳と新共同訳は、わたしについて正しいことを語らなかった(述べなかった)と訳されているが、新しい聖書協会共同訳では、「あなたがたは、私の僕ヨブのように確かなことを私に語らなかったからだ」となっている。

 

この後、神は、友人達にヨブに執り成しの祈りをささげてもらうようにお命じになる。そして、ヨブが友人達のために神に執り成しの祈りをささげたことによって、ヨブに祝福を与え、その繁栄を回復される。

この記述を見ると、一番新しい聖書協会共同訳の訳の方が合っているように思われる。

 

神は、「神について」正しいことを語ることを友人達に求めたのではなく、ヨブのために「神に」執り成しの祈りをすることを求めておられたのだ。

 

しかし私たちは、苦しんでいる者を見るとき、何とかしてやりたいと自分の力で説得を試みようとするものなのだ。