風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

どこに愛があるというのか!― ドストエフスキー『罪と罰』2

マルメラードフのどこが悲しいと思うのか?

 

例えば、こういうところだ。

私があれをもらったときは、後家さんで、小さいのばかり、三人も抱えておりましたっけ。まえの主人は歩兵将校で、好きあって親の家から駈落までしたもんです。あれのほうが首ったけでしてね。ところがその主人が、カルタに手を出して、裁判沙汰になって、それなり死んじまった。最後のころは、ずいぶん家内をぶちもしたようで、あれのほうでもいい顔ばかりはしていなかったらしい、なに、これについちゃ、私もたしかな証拠をにぎっておるんですわ、ところがそれでいて、いまだに先の主人のことを思いだすと涙ぐんで、それと比べちゃ私を責めるんです。いえ、私は喜んでいるんですよ、喜んで。だって、たとえ想像のなかだけでも、以前は自分もしあわせだったと思えればけっこうじゃありませんか・・・・・で、主人が死ぬと、あれは三人の幼い子どもを抱えて、遠方のへんぴな地方にとり残された。そのころ私もそこにおったんですが、そりゃひどい貧乏暮らしで、私も、世のなかの苦労はたいてい見てきたつもりだが、それこそお話もできないような有様でしたよ。肉親にもみな見放されてしまった。あれがまた、度はずれに気位の高い女でしたのでね・・・・・そこでですよ、あなた、やはりやもめ暮らしで、十四になる先妻の娘もおった私が、そんな苦しみを見るに見かねて、結婚を申しこんだってわけです。あれの困窮ぶりが、どれほどのものだったかは、あの家内が、教育もあり、名門の出で、育ちもちがうあの家内が、私なんぞといっしょになるのを承知したことでも、察しがつくじゃありませんか! それでも、いっしょになった! おいおい泣きながら、両手をもみしだきながらでしたが、それでも私といっしょになった! というのも、どこへも行き場がなかったからなんで。おわかりですか、あなた、おわかりですか、この、もうどこへも行き場がないという意味が?いや! こいつはまだあなたにはおわかりじゃない・・・・・で、まる一年というもの、私は自分の義務を忠実に、後生大事に果たしましたよ。こいつには(と、ウオツカの小瓶を指ではじいてみせ)手もふれやしなかった。私にだって情というものがありますからな。ところが、それでもあれの気持ちにかなうことができなかった。そこへもってきて役所は首になる、それも私が悪かったんじゃなくて定員改正のためなんです。そのときでしたよ、これに手を出したのは!・・・・・もう一年半になりますかな、私どもがあちこち流れ歩き、いろいろと苦労もかさねたあげく、ようやくこの立派な、いくつもの記念碑の立ちならぶ都へやってきましてから。ここで私も職にありついたわけです・・・・・いえ、やっとありついて、またなくしたわけですな。おわかりですか?こんどは私自身の罪でなくしたんですよ、私の性根が顔を出しましてね・・・・・(『罪と罰』)

 

幸せにする力もないくせに見るに見かねて結婚を申し込んだという・・。

そして一緒に不幸のただ中に落ちていくという・・。しかも娘まで道連れにして。

悲しすぎるだろ!

だいたい人に幸せにして貰おうという考え自体、間違っていると思うが、世の中、そういう風に考えるのが普通な気もする?良くは知らないが、結婚する際に「幸せにするよ」とか、「幸せにしてね」とか言うのかな?それとも、それはドラマか何かの世界だけの話か?言われたことも言ったことも思ったこともないから私には分からんが!

 

 

罪と罰』で今のところ共鳴するのは、やはりラスコーリニコフなのだが・・。

例えばこんなところで。

「いや、勉強中です・・・・・」青年は、相手の妙にものものしい話しぶりにも、また、こんなふうに正面きってずばりと話しかけられたことにも、いささか面くらったふうで答えた。ついいましがたは、どんな形でもいいから人とつきあってみたい、という気持もちらと動いたのだったが、いざ、実際に話しかけられてみると、もう最初のひとことから、不快な、いらだたしいばかりの嫌悪感がふいに頭をもたげてしまう。彼の一身にかかわることに手をふれ、あるいはふれようとする他人にたいして、彼はいつもこの嫌悪感を感ずるのだった。(『罪と罰』)

 

けれどこのラスコーリニコフはこの後、マルメラードフに請われるまま家に連れて帰り、その家のあまりの悲惨さに、借りたばかりのお金をこっそり置いて帰るのだ。この流れで、金貸しの老婆を殺害するのだとしたら、とっても共鳴できそうにない。それなら見るに見かねて結婚を申し込んだマルメラードフとなんら変わりないじゃないか!

やれやれ、どこまで行っても悲惨な展開しか思い描けないのだが、下巻が手元にないので得意の最後を先に読むということも出来ない。

 

 

しかし私は、この時点で、こんなことを考えている。力もないのに自分でどうにかしようとする、それこそが罪だとドストエフスキーは言いたかったのではないのか・・・・・、?