風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャ 5 − ドストエフスキー『罪と罰』

 「ぼくは用事を話しにきたんだ」ラスコーリニコフが、突然、顔をしかめて、大声に口をきり、立ちあがって、ソーニャに近づいた。(略)

 「ぼくは今日、肉親を捨てたんだよ」と彼は言った。「母親と妹をね。もう、ふたりのところへは行かないんだ。あそこできっぱりと縁を切ってきた」

 「なぜです?」ソーニャは呆気にとられたようにたずねた。(略)

 「いま、ぼくにはきみひとりしかいない」と彼はつづけた。「いっしょに行こう・・・・・ぼくはきみのところへ来たんだ。ふたりとも呪われた同士だ、だからいっしょに行こうじゃないか!」(略)

 「どこへ行くんです?」彼女は恐ろしそうにたずねて、思わずあとずさった。

 「どうしてぼくが知るもんか? ぼくが知っているのは、行く道がおなじだということだけさ、これはたしかだけど、それだけだ。行先がひとつなんだよ!」

 ソーニャは彼を見つめていたが、何ひとつ理解できなかった。理解できたのはただ、彼が恐ろしく、限りもなく不幸だということだけだった。

 (略)「だが、ぼくはわかったんだ。きみはぼくに必要な人だ、だからぼくはここへ来たんだ」(岩波文庫罪と罰』中p290~291)

 

ここは、ソーニャがラザロの復活を朗読した後の場面である。この時点ではまだ、ラスコーリニコフは老婆殺しの告白はしていない。

ラスコーリニコフは、同伴者としてのソーニャを無意識のうちに感得しているのだ。

兄はひとりきりではない。彼女、ソーニャのもとへ、兄は最初に懺悔にやってきた。兄は人間が必要となったとき、彼女のなかに人間を求めた。彼女は、運命のみちびくまま、どこへでも兄の後について行くにちがいない。(岩波文庫罪と罰 下』p350

 

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23 聖書協会共同訳)

 

ここでドストエフスキーが描いているのは、「インマヌエル」「われらと共におられる神」としてのソーニャである。

 

否、「ドストエフスキーがこの作品全体を通して描こうとしているのが」、と言い換えた方が良いのかもしれない。

 

 「あなたはこの世界のだれよりも、だれよりも不幸なのね!」彼の言葉も聞こえぬらしく、彼女は夢中で叫んだ。そしてふいに、ヒステリーでも起きたように、おいおいと泣きはじめた。

 もうとうの昔に忘れていた感情が、ひたひたと彼の心に押しよせ、たちまちそれをなごめた。彼はその感情に逆らわなかった。ふたつの涙の玉が彼の目からあふれ、睫毛にとまった。

 「じゃ、きみはぼくを見捨てないんだね、ソーニャ?」希望をさえ宿したような目で彼女を見ながら、彼は言った。

 「ええ、ええ。いつまでも、どこへ行っても!」ソーニャは叫んだ。(岩波文庫罪と罰 下』p117)

 

 

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない(ヨハネによる福音書14:18 口語訳)

 

 

 

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