風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「しかし、神はなおも私たちを愛してくださり…」(説教のためのメモ書きから ホセア書4:15~19)

この世の誘惑の力は大きい。

ヨーロッパ・アメリカの政治家の多くはクリスチャンであろうが、ヨーロッパ・アメリカの政治が聖く素晴らしいというようには思えない。アジア・アフリカを植民地とした。今日のアフリカの混乱の多くの原因となったのは欧米の植民地政策が原因である。北米で、南米でヨーロッパの人間はどれほど多くの先住民を殺したことであろうか。

この世の力、お金、そして罪からくる自由の誘惑は大きい。

私たちはこの世的に大きな力をもっていないから分からない。

私たちの所属する教派も神学校の問題で金に惑わされて判断を誤った。

罪はいつもこの世的な正しさを装ってくる。いろんなところから忍び込んでくる。預言者が何人もおこされ、その罪が指摘されねばならなかった。私たちがその時代にいたならうっとうしく思えたかもしれない。そして罪の根深いところで偶像礼拝がある。
私たちの持つ偶像は大概の場合、この世での楽しさと結び付いている。

偶像に仕えるということはこの世と手を結ぶことである。真の神を知った者は、神と偶像とにうまく仕えていこうとする。しかし、神とこの世とに仕えることはできない。許されていない。

罪人の私たちには罪は楽しい。この罪から離れるのは難儀。もし、神の言葉に耳を傾ける事をしないならば、心地よい話しではなく、耳が痛い話であっても神の言葉に心開くのでなければ、痛みによってしか、神の審きによってしか罪に気づくことができないであろう。

私たちは神の似姿に造られていることを忘れている。私たちは命を喜び、生きることを喜ぶことができるものとして神に造られた。何ゆえに自ら苦しみを招きよせようとするのか。

 

しかし、神はなおも私たちを愛してくださり、独り子を私たち罪人の救いのために献げてくださった。神は私たちが恥を受け、審きを受けることを望んではおられない。そして、私たちの救い、喜びは、私たちの真の救い主イエス・キリストのもとにのみある。

「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。彼を信じる者は、審かれない。信じない者は、すでに審かれている。神の独り子の名を信じる事をしないからである。」(ヨハネ3:16-17)

 

古いカレンダー、一巡りして今年と同じ。

 

夫が気に入って買った絵と、夫が日曜学校の先生から貰った“がんばったねメダル”。

退院してきたら見せてあげよう。

3年間、病院で、本当に良く頑張ったね。