風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「お前たちのうちにあって聖なる者」(ホセア書11:1~11)

今日は、お説教をお願いしていた先生が風邪を引かれたので、急遽、夫の過去の説教代読で礼拝が守られた。

 

「お前たちのうちにあって聖なる者」(ホセア書11:1~11)

(1)まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
 
神は、イスラエルの民をエジプトから導き出された頃を振り返っています。神はここにおいて親の子に対する愛を語ります。神は、背を向け離れて行った罪人をご自身の子として救われるのです。神を必要のないものとして離れていく罪人に対して、神は親子の絆を造り出されるのです。
 
(2)わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
 
ところが、イスラエルはこの神を捨て、バアルという偶像へと走りました。バアルというのは、イスラエルがエジプトから導かれて入ったカナンの人々が崇めていた神の名前です。豊作の神として敬われていました。イスラエルは、自分たちを子どもとして受け入れ、親子の愛と絆で持って導く真の神を捨て、豊かさを与えると言われている神を選んだのです。ちゃんとした親なら、子どもが欲しがるものをみんな買い与えるということはしません。しかし、イスラエルはその親を捨てて、欲しいものは何でも与えてくれると信じられている人の許へ走ったのです。
 
(3)エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
 
エフライムというのは、イスラエルを指す別の言葉ですが、彼らは豊かさに目が眩み、誰が幼かった自分に歩くことを教え、疲れたときに誰が癒してくれたのかを忘れてしまったのです。自分たちが求める豊かさと比べると、神が与えてくださった愛などは大したことがないように思えてしまったのです。わたしたちは一体何が自分にとって一番大事だと思っているでしょうか。
 
(4)わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
 
神は、わたしたち一人一人を結びあわせる愛の絆そのものでした。わたしたちが身に負っている罪のくびきを取り去り、自由にしてくださいました。しかし、多くの人は神と共に生きることが自由だとは考えません。罪人は、自分の身勝手が自由だと勘違いしてしまっています。そして、罪人は自由を求め、自分の求めている自由によって傷つくのです。わたしたちを子としてくださり、愛し、守り、導いてくださる神こそが、本当の自由を、本当の豊かさを、そして本当の喜びを与えてくださるのです。
 
(5)彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
(6)剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。
 
イスラエルは、自分が求め続けたものが何を自分たちにもたらすのかを身をもって知る以外に真実に気付くことができなくなってしまいました。神に背き、立ち返ることを拒み続けた代償として、自由と命とを犠牲にしてしまいました。自分たちが自由と豊かさとを与えてくれると信じ、求め続けたものが、最後に何を与えてくれるのかを自分自身で知らなければならないのです。すべては自分たちのわがままな在り方の結果であり、預言者ホセアの言葉を拒み続けた結果なのです。
 
(7)わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。
 
罪の悲惨さの中においてもイスラエルは神に背き続けるのです。罪に溺れてしまうと、神の言葉に聴き、神の許に帰る力が奪われてしまうのです。苦しみうめいているのに、助けを求めているのに、神の言葉に従おうとはしないのです。
 
(8)ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエル
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
(9)わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。
 
罪に溺れ、神の言葉に聴くことのできない者たちを、神はなお憐れまれる。
神の裁きとは捨てさることとか滅ぼすことではない。神が望んでおられるのは罪人の死ではなく、生きて神の許に帰ることである。
神が裁かれるとき、そこには罪人を滅ぶままにしておけないという神の愛が働いている
「聖」という言葉は、神と正しい関係にあることを示す言葉。
お前たちのうちにあって聖なる者」とは、罪人のただ中にあって神ご自身が神と人との正しい関係を造り出す方という意味である。それは決して怒りによってではなく、わたしたちに対する愛によってである。わたしたちを創造されたときのあの愛であり、わたしたちを救い出された時のあの愛である。
そしてこの愛が、救い主イエス=キリストの到来となる。
 
(10)獅子のようにほえる主に彼らは従う。
主がその声をあげるとき
その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。
(11)彼らは恐れつつ飛んで来る。
小鳥のようにエジプトから
鳩のようにアッシリアの地から。
わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると
主は言われる。
 
罪の闇の中でおじ惑っているわたしたちの目を覚ますために神は獅子のように声をあげられる。神の前に罪を覚える者は、恐れつつ集う。わたしたちはそれぞれに罪を抱え、神の前に恐れを覚えながら集っている。わたし自身も罪を覚えさせられ、とても神の言葉を語れないと思うときがある。かつて祈れないときがあった。自分で満足しようとしていたから。
恐れつつ集ってよいのだ。恐れつつ集っても、わたしたちが知るのは、神の愛であり、わたしたちを子として受け入れ、絆を造り、導いていてくださるということ。
わたしたちはそれを神の言葉から知り、神を礼拝する中で体験する。
罪人が最後に求めなければならないもの、それは神ご自身である。
神の言葉を聴き、神を礼拝するとき、神がわたしたちを住むべきところへ導く。

 

説教原稿は、聖書箇所と説教部分に分けて残されていた。

 

代読して下さった長老は、以下のように言葉を補って締めくくって下さった。

 神の言葉を聴き、神を礼拝するとき、神がわたしたちを本来住むべきところへと導いてくださるのです。

 神の前に集い、神の愛に包まれて、わたしたち一人一人を結び合わせる愛の絆のうちへと導かれていきたいと思います。