コロナの中で
窓あけて雨の礼拝 燕鳴く
fruktoj-jahurto.hatenablog.com
バベルの塔、と言われる聖書の箇所です。昔話のような語りで話は進みます。
昔、昔、「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。」(1~3節)
「石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た」というのは、文明の発展を表しています。文明の発展によって、人間は力を得ました。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(4節)
人は現代に至るまで変わりません。科学的知識を得ると、その知識によって力を得、力を表現します。その一つが、高層建築です。世界一の高さのものを建てることのできる技術は、人類の誇りの一つです。
わたしは、こういう誇りがよく分かるような気がします。建築の仕事は、自分が携わったものが目に見えます。形が残ります。手で触ることができます。わたしは、うらやましさを感じます。
わたしの仕事は、牧師です。神学校を卒業してから27年が過ぎました。自分に与えられたものを用いて、精一杯御言葉を語り続けてきました。わたしが取り次いだ聖書の言葉を通して、どれだけキリストと出会えたでしょうか。どれだけ神を知ることができたでしょうか。一人ひとりの信仰が、また教会がどれだけ成長したでしょうか。全く分かりません。時に、自分のしてきたことには意味があったのだろうか、と迷いが生じることもあります。その評価は、神がなさることであり、終わりの日に神の御前に立つまで分かりません。そんな時、建築の仕事はいいなぁと思うこともあるのです。
今日代読して頂いた説教は、借り物でない夫の心情が吐露された説教だった、と思った。
説教というのは本当に難しいものだと思うが、自分の経験や自分の思いに囚われてそこから出られない説教というのは、おそらく聴くものの心情からは大きく離れてしまうだろうと思われる。
しかし教理的に正しく語れば聴けるかというと、そうはならない。
そこに、語る者の魂を摑んだ福音がなければ伝わってこないだろうと思うのだ。
罪を抱えた人間は、自分の願望、欲望に縛られ、留まることもできずに突き進むのです。この罪人の突進を止めるのが、神の裁きです。
神の裁きを、神の罰だと考える人がいますが、それは一面的な見方です。神の裁きは、罪の暴走によって滅びに飲み込まれてしまう罪人を救うための御業でもあります。この時も神の御業によって「彼らは町を建てるのをやめた」のです。
「神の裁きは、滅びで終わるのでなく、そこから救いが現れ出るのです」というのは、夫が良く語っていた言葉だった。これは夫が受け取ることができた神からの福音の言葉であったと思う。
けれど、言語が違ったために、人は相手を知り、理解する努力を続けるようにされました。神の裁きは、罪人が共に生きるための努力へと導きます。
そして、その中心となるのは、神を知ることなのです。なぜなら、わたしたちは神にかたどられて造られたからこそ、愛を求め、共に生きることを求めるのです。
良い説教だった。
歌ってる声をわたしは聴いている 君とわかてり春の孤独を
讃美歌の532番は、2節の歌詞が、私は、好きです。
主の受けぬこころみも、主の知らぬ悲しみも
うつし世にあらじかし、いずこにも御跡見ゆ。
昼となく夜となく、主の愛に守られて、
いつか主に結ばれつ、世には無きまじわりよ。