風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「救いの光の中を生きる」(マルコによる福音書4:21~25)

 「救いの光の中を生きる」

 

2023年9月17日(日) 聖霊降臨節後第16主日

聖書箇所:マルコによる福音書  4章21節~25節

 

 6月4日の○○先生の説教代読では、4章1節~20節までの御言葉を聞きました、また9月3日には、その中から10節~12節まで『たとえを用いて話す理由』について、○○長老より御言葉を聞きました。今日はその続き、21節~25節から御言葉を聞いていきます。

 

 イエスは種蒔きのたとえに続いてともし火のたとえを語られました。

 

 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」

 

 升はともし火を消すためともし火にかぶせるものです。升の下に置くとは、ともし火を消すことです。寝台の下に明かりを置く。ベッドの下に明かりを置いたら間接照明で素敵かもしれません。しかし、これは現代の明るい照明を使っている者の感覚でしょう。2000年前の家庭に置いてあるともし火を考えると、部屋を一番よく照らすところに置いたとしてもおそらくわたしたちが想像するよりも暗いのではないかと思います。ですから、当然ともし火は升の下や寝台の下に置くためではなく、燭台の上に置くために持って来るのです。

 

 これもまた、たとえとして語られました。ともし火は何を指しているのか。それはイエス キリストご自身であり、イエス キリストによってもたらされた神の国です。イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)、冒頭に「ともし火を持ってくる」とありますが、実はギリシャ語の原文では「ともし火を持って来る」ではなく、「ともし火が来る」と書かれています。イエス キリストが世に来られ、神の国が到来したのは、その光が世を照らすためです。イエスを救い主と信じ従っている弟子たちはもちろんですが、それだけでなく世を照らすためにキリストは来られ、神の国が到来したのです。

 

 この世はキリストを拒み、世に属する人々は従わず、その光が明らかにならないように見えるかもしれませんが、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」のです。

 

 わたしたちは救いの光が世を照らすのを待ち望み、御国が来ますようにと祈り続けています。しかし、隠れている、秘められていることには神のご計画があるのです。聖書にはこう記されています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ3:9) 隠れているのは救いの完成への時であり、それは神ご自身の忍耐によって支えられているものです。何よりも神がわたしたち罪人を愛しておられるからに他なりません。神は罪人が悔い改め、光に照らされ、救いに入れられるのを願っておられます。

 

 まだすべてが明らかにはなっていませんが、神の民の歩み、その働きによって世界の各地にキリストの福音は運ばれ、その恵みが証しされてきました。罪の力の大きな妨げにも関わらず、世を照らし続けてきています。そして今、わたしたちもキリストに従った先達の歩み、働きを通してキリストの言葉を聞いているのです。

 

 そこで続いてこう言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。何を聞いているかに注意しなさい。」神はわたしたちの救いのために語り続けられます。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2) イエス キリストは神の言葉として世に来られました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) わたしたちは何を聞いているのか注意しなくてはなりません。わたしたちを罪から救い、命へと導く神の言葉が語られています。わたしたちに向けて神の言葉が、そして神の想いが注がれているのです。

 

 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」イエス キリストを信じ、神の言葉を受け入れる人は、自分で受け取り受け入れた分量を与えられます。それは種蒔きのたとえで語られていたとおり、そのまま倉にしまわれているものではありません。御言葉を聞いて受け入れるとき、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです(4:20)。豊かな実りを得て喜んだ者は更に受け入れ、聞き従うでしょう。持っている人は更に与えられるのです。逆に、聞いても受け入れない人、神の言葉を持たない人は、持っているものまでも取り上げられるのです。受け入れない人、持たない人は、持っているものが罪によって奪い去られていくのです。丁度、神の祝福によって与えられた命が、罪に導かれて行くとき最後には死に導かれその命を失ってしまうのと同じです。神の言葉は聞いても聞かなくても同じなのではありません。今はまだ明らかでなくとも、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」のです。

 

 まだ何も話すことのできない赤ちゃんに対してわたしたちはひたすら語り続け、赤ちゃんとの関係を築こうとします。必要な面倒は見ているから別に話しかける必要はないとは考えません。自分に思いが向けられていることを知ること、自分に言葉が注がれるのを経験すること、そして大切にされること、これなくして信頼は生まれないと思います。そして信頼は生きる力となります。親も信頼できない、友達もこの世界も信頼できない。これでは、生きる力は生まれてきません。生きる力の根本は“信頼”だと思います。信仰がなぜ大切かといえば、真の神、造り主であり救い主である神への信頼は、本当の生きる力を与えてくれるからです。神の国に生きる喜びと希望を与え、わたしたちをすべての善きことへといざない、永遠の命に導くからです。だから神は語り続けてくださるのです。本当の生きる力である信仰を育むために、まだ神を知らないときから、神に答える言葉を持たないときから語り続けてくださったのです。

 

 イエス キリストはわたしたちを命の源である真の神へと導き、永遠の命に生きるようにと語り続けておられます。その御言葉はよい土地にだけ、聞いて受け入れる人にだけ語られるのではなく、道端にも、石だらけのところにも、茨の中にも蒔かれます。すべての人に語られているのです。誰であれキリストの言葉を受け入れ、大切にするなら、それは必ず豊かな実りをもたらします。キリストの言葉には命があり、救いがあるからです。

 

 そして、キリストはわたしたちを照らす光としてきて下さいました。キリストを升の下や寝台の下に置いて隠してしまわずに、燭台の上に置くならば、わたしたちの主として仰ぐならば、キリストはわたしたちの心を照らし、人生を照らし、わたしたちの周囲の人々をも照らすでしょう。救いの光の中を生きるようにとイエス キリストは来てくださり、わたしたちにご自身を差し出してくださっています。わたしたちは光の中へと招かれているのです。

 

マルコによる福音書の説教は札幌時代にしたものである。

夫は元々原稿を作らずにメモ書きだけで説教をしていたのだが、それでは色々なことを盛り込んで長くなるということで、説教原稿を作って読み上げるという試みをこの頃に始めたのだった。

ところが、完成された説教原稿というのは、語るというより読んで理解する文章となっている。分からないところを何度も読み返すには良いが、完成された原稿をそのまま読み上げると、一度では聞き取れないということが起こってくるのだった。

それで、「今日のあの部分は、ちょっと待って!今のところをもう一度言って、と聞き返したくなったよ」などと話したりしていた。

 

今日、代読して下さった長老はいつもゆっくり読み上げて下さるので、聞き返したいと思うことがない。

 

また、この頃は書記の仕事を抱えていたりなどして、説教原稿をまとめる余裕のないこともあった。なので、きちんと纏まった説教原稿と、要旨程度のもの、メモ書きのものなどバラツキが激しく、読み込んで代読して下さる長老の皆さんにはご苦労をおかけしている。

 

説教題も長老のお一人が付けて下さっているが、今日の説教題も説教の言葉の中から相応しいところを取り上げて付けて下さった。

夫は説教が出来る前に前もって説教題を考えて付けていたので、聖書の言葉の中から適当に選んだもので、いつも味気ない説教題だった気がする。