「来て、見なさい」
2022年1月2日(日) 降誕節後第2主日礼拝 【新年礼拝】
きょうの箇所では、イエスと弟子たちとの出会いが記されています。
(略)
きょうの箇所のテーマは、イエス・キリストに出会うこと、そしてキリストによって信仰に導かれ、救いに入れられる、ということです。
わたしたちは、「来て、見なさい」とイエスへ招かれているのです。そして、イエスと出会ったとき、イエスがメシヤ=キリスト=救い主だと分かったとき、神が救いの御業をなしてくださる神であり、わたしをキリストへ、救いへと導いてくださったことを知るのです。そして、弟子たちを救いの御業のためにお用いになったように、わたしたちも「来て、見なさい」「メシアに出会った」と証しする者とされるのです。
このヨハネによる福音書が編纂されたのは、イエスの十字架から70年近く経っていたと言われています。イエスが十字架にかけられたのが、およそ紀元30年頃。ヨハネによる福音書の成立年代は、紀元90年代後半だろうと考えられています。この福音書を読んだ人、語り聞かされた人は、わたしたちと同じようにイエスを肉眼で見ることはできません。それは、この福音書の著者、あるいは編集者も分かっています。しかし、福音書はイエスの許に「来て、見なさい」、そうすれば「メシアに出会った」と喜べると伝えるのです。
なぜなら、福音書の著者、編集者もおそらく肉眼でイエスを見てはいないからです。
だからこそ、御言葉を通して、イエスが出会ってくださるということを、知っているのです。自分自身も、肉眼でイエスを見たことがなく、イエスの声を耳で聞いたこともない。特に不思議な出来事を体験したわけでもない。しかし、聖霊なる神が働いてくださるとき、宣教の言葉を通して生ける真の神、復活の主イエス・キリストに出会うことができるのです。それを福音書の著者、編集者も知っているのです。だからこそ、福音書はイエスの許に「来て見なさい」、そうすれば「メシアに出会った」と喜べると伝えるのです。
全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/01/02/202706
この説教の前半部分は、福音書の内容をなぞるように辿りながら語っている。これは、夫らしい福音書の語り方である。
しかし今回は長老が一語一語ゆっくり丁寧に語って下さったので、後半部分のメッセージがクローズアップされるようであった。
以下は、夫への手紙
1月2日はヨハネ福音書(ふくいんしょ)1章35節からの説教を読み聞かせて頂きました。○○長老が、〈ぼくとつ〉と思えるほどに一語一語を丁寧に読み聞かせて下さったので、後半部分のメッセージがとても良く伝わって来ました。
「なぜなら、福音書の著者、編集者もおそらく肉眼でイエスを見てはいないからです。だからこそ、み言葉を通して、イエスが出会ってくださるということを、知っているのです」と。