「牧師先生はお戻りですか?」と、夫が倒れてから度々電話がかかってきた。牧師が退院してきたら礼拝に出るというのである。この方はうちの教会員ではない。
私が、「○○さんですね」と言うと、「名前なんてどうでもええやない!}と偉そうな返事が返ってきた。その時は何も言わなかったが、この次は言ってやろうと思う。「あなたの声を聞けば私にはすぐにあなたが誰だか分かる。私以上に、神様はあなたが誰だか知っていて、名前を呼んであなたを招いておられる!」と。
あるいは、こうも言うかもしれない。「牧師を求めて来るのなら、もう二度とキリストの教会には来なくていい!」と。
他所の教会に呼ばれて説教をしても、「声しか褒められない」と夫は嘆いていた。
今、呼吸がやられて気管を切開して人工呼吸器をつけている。
一番良いと思われていたものが取り上げられて、隠れていたもっと良いものが表れてくるのだろうか?
一月号の『聴く』にこの挿絵を入れたくて、下の御言葉を載せた。本末転倒?
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント人への第二の手紙4:7 口語訳)