風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

偶像崇拝とは・・。(牧師とは?牧会とは?)

この前の日曜は受付当番だった。しかし年に1,2度受付に立ってもただ突っ立っているだけで体がスムーズに動かない。それで、気が利かない。

 

傍らに立っていた執事さんが初めてお見えになったらしき方に「この教会は初めてですか?」と声をかけられた。すると、その方は「ここの教会に来るのは3度目です」と応えられた。最初は祈り会に来られて、2度目の時は牧師と話しに、ぷらっと来られた、そうだ。

そして、「○○先生はまだ良くなられないんですか?」と尋ねられたので、私が、「あぁ、そうですねぇ」と言って、私は妻だと伝えようとして「(私、)○○です」と言ってから、「以前はどちらかの教会に行っておられたんですか?」と尋ねた。すると、教会に行っていたというか、結婚式の時の牧師がどうも駄目で・・、でも、ぷらっと来て話した時の○○先生の受け答えがしっくり来たので・・、と。

そして、「僕としては○○先生が倒れられて残念で・・」と仰った。私は、なんと言って良いか分からず、「あ〜あ」とか何とか言ったと思うのだが、「いやぁ〜、僕なんかよりご家族はもっと残念だと思っておられると思いますが・・」と。

 

この方のお話はなんとも有り難く、この次、面会に行ったら、夫に話して遣ろうと思っているのだが・・。しかし、

 

洗礼を受ける前、準備会で牧師から、「心理学を学ぶのは良いですが、心霊学は駄目ですよ」と言われた。

当時私は教育科で学んでいたので、良いも何も心理学は必須だったし、心霊学なんかに興味も関心もなかったので、頷いて聞いていただけだったのだが、こういう形で偶像崇拝を禁止したところで全く意味がないと今では思う。

もう一つ注意されたのが、京都なんかに観光に行って、美術品として仏像を鑑賞することはあっても拝むことはあり得ない、というようなことだった。

うちの娘は子どもの頃からお地蔵様を集めるのが好きだったので、学生時代に友人から「お地蔵マニアのクリスチャン」と言われたらしいが、そんなものは偶像崇拝でもなんでもないと私は思う。そんなことを言えば彫刻家は偶像崇拝者か、ということにもなるだろう。

占いは駄目だとか、くだらないことを偶像崇拝の例えにして禁止しなくても良いだろうと、私はいつも思っている。

 

偶像崇拝の最たるものは牧師を拝むということだ!と、言いたいのだ。

偶像崇拝とは、人間を神に祭り上げることだ!

 

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「牧師先生はお戻りですか?」と、夫が倒れてから度々電話がかかってきた。牧師が退院してきたら礼拝に出るというのである。この方はうちの教会員ではない。

(略)

あるいは、こうも言うかもしれない。「牧師を求めて来るのなら、もう二度とキリストの教会には来なくていい!」と。

 

他所の教会に呼ばれて説教をしても、「声しか褒められない」と夫は嘆いていた。
今、呼吸がやられて気管を切開して人工呼吸器をつけている。

一番良いと思われていたものが取り上げられて、隠れていたもっと良いものが表れてくるのだろうか?

 

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント人への第二の手紙4:7 口語訳)

 

神のものは神に返さなくてはいけない。

 

また、そういう人たちの信仰告白の背後にも、虚栄的な偉がりというものが隠れています。時として、熱狂的に崇拝している牧師さんと、できるだけ頻繁にいたいという欲求も含まれていることもあります。もちろん無意識的なものですが、そこには性的なものもあるのです。ですから、そのような神経症の人の場合には用心しなければなりません。このような場合、一度気にいらないことがありますと、今までの崇拝が一変して、恨みがましい悪口になり、すねたり、ひがんだり、ひねくれたり、憎んだり、ということが起こってくるのです。(赤星進=著『心の病気と福音 下』)

 

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最初の赴任地では、他教派から一時的にうちの教会に来られていた方がいて、夜中に、「これから死にます」と言うので、行って一晩説得したというようなこともあった。

(略)

札幌では、話を聞いてほしいとやってきた人の話を2時間、3時間と聞いて、結局最後はお金を下さいと言われることが多かった。

 

2時間も3時間も人の話を聞いて、牧師も偶には人に褒められたいと思うこともあるだろう。しかし、神のように誉め讃えられるなら、それは間違った信仰へと導いているということなのだ。

 

牧師というのは、なんという孤独な務めを負った者だろうか、と思う。

 

今も、夫は、身動きも出来ないまま、病院のベッドの上で横たわっている。