〈 聖書を読む 〉ルツ記(補助的に申命記)
教会員の皆様へ
2021年6月27日、長老が読み上げてくださる礼拝説教を聞きながら、私と娘は今、神の民の群である教会によって守られて生きているということを身をもって体験させられているのだ、と思ったのでした。
夫が倒れて一年が過ぎようとしています。
夫が救急車で運ばれて直ぐに、私は、あきらめ、祈ることもせず、これからの自分たちの身の振り方を考えていました。けれど、皆様の、「諦めない」という具体的な言葉や言葉にならない思いやお祈りによって夫は生かされ、クリスマスを迎え、またこうして新しい年を迎えております。
そして、この一年を、教会からの経済的なお支えによって守られてきました。
けれど、思い返せば、それはこの一年だけのことではなかったと思わされます。
病を抱えているにも拘わらず招聘を頂いたときから支えられていたと思えます。招聘のお話を頂いたのは、次の月曜に、再入院しなければならないという時でした。あの時、夫がどれほど励まされたかしれません。
コヘレトには、「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」(4:9~10)と記されていますが、牧師の妻となって(牧師の妻に限らないかも知れませんが)、助け起こすことも、励ますことも、慰めることすらなかなか出来ない、そういう思いに苦しんできました。
けれど、コヘレトは、続けてこう語っています。「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」(4:12)
三本目の糸となって、皆様が支えてきて下さったことに、深く深く感謝いたします。
さて、民の中には家畜を飼っていない者もいたであろうし、また、貧しさのために牛や羊や山羊を手に入れることができない者もいたであろう。それ故、鳥を焼き尽くす献げ物とすることが認められている。その場合、山鳩か家鳩の雛を献げる。他の献げ物においてもそうであるが、牛や羊の家畜が本来献げられるべきだが、それができない人々のための規定がある。
これには、他の分野の律法において、神がやもめやみなしごや在留異国人を配慮に入れておられたことと相通じるものがある。
彼らもまた「神の宝」であり、神の民の一員だからである。職業や財産などのこの世の条件で神の民から疎外されることはないのである。
https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/01/25/225323
この一年、多くの方に助けられてきた。
最近も、医療費の助成金を申請するために行った市役所で、「限度額認定証が1月で切れるので、新しいのを申請された方が良いですよ」と教えて頂き、慌てて問い合わせて申請を出した。これが切れると、月に100万を超える入院費を支払わなくてはいけなくなる。申請の出し方も丁寧に説明して頂き、翌週には新しいのが届いた。
お一人お一人に直接お礼を言いたいけれど、なかなか言えないものだ。
夫が救急車で運ばれ、病院から帰ってきた朝、教会の役員に連絡を取った。
長老方は働いているため、夫妻で長老・執事を担っているお宅に電話をした。その中の一人が電話を切る間際に発した言葉に、私は、その後を支えられたと思う。
その方には、その前年の秋にも、電話口でかけられた言葉に助けられたのだった。
役員会のお昼の用意を私がしていたが、その時は娘のアトピーが酷く、娘に何を食べさせれば良いか考えるので精一杯で、役員のお昼を考えている余裕がなかった。それで、電話をしてお願いした。電話の切り際に、「頑張って下さい!」と言われた。うつ病の人などには「頑張れ」というのは禁句だというようにも聞くが、その時の私は、その言葉を聞いて、「そうだ、私は頑張れる」と思ったのだった。自分への信頼を呼び覚まされたように思えた。
そして夫が倒れた時も、電話の最後に、「奥さん!大丈夫?!」と、確認するように声をかけられた。この、何と言って良いか分からない時に思わず発したような言葉に、私は、その後を支えられた、と思う。
その時、「大丈夫」と応えた。だから、恩師から届いたハガキにも、「先生、私は大丈夫です」と返信した。
夫を残して病院から出る時、もうこのまま死んでしまいたい、と思っていたのだ。
子どもの頃から私は、何かあるとすぐに死にたいと思う人間だった。色々なことが面倒になって、いっその事もう全てを投げ出して死んでしまいたいと思うのだった。
事務的な手続きや数字や家計のことが苦手で、一切を夫に依存していた。私は食費だけを貰って食事の事だけを考えていれば良かった。しかしこれから、そういったこと全てが私の身にふりかかってくる、と。
けれど、私はこの一年、車の処分から始めて、保険の申請、田舎に残している家のことなど、全ての事務的な手続きをやってきた。まだ全てが終わったわけではないが。
これらのことをやってこれたのは、この時かけられた言葉と、それに応えた自分の言葉のためだと思う。
わたしたちの日常生活でも、聞いているのにそれに答えが来ない、対話が成り立たないとき、共に生きるということが難しくなってきます。
神は言葉を発し、その言葉は出来事になります。その神にかたどってわたしたちは造られました。
わたしたちは、神に応答していくとき、わたしたちの言葉は空しいものではなく、出来事になると信じることのできるものとされていくのです。