風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「最高法院の裁判」(ルカによる福音書22:63〜71)

 「最高法院の裁判」

 2022年1月16日(日) 降誕節後第4主日礼拝 

聖書箇所:ルカによる福音書22:63〜71(2018年2月4日説教原稿代読)

 
 イエスは逮捕され、大祭司の邸宅に連れて行かれました。そこで夜明けまで、イエスは監視されたままで置かれます。

 66節に「最高法院」とありますが、「最高法院」とは、祭司、律法学者、長老から選ばれた70人の議員、そして議長を加えた71人から成るユダヤの最高議会のことです。この最高法院は、夜中に行うことを禁じられていたため、イエスは夜明けまで監視されたまま置かれていました。

 その間、監視していた人たちは、イエスを侮辱したり殴ったりしました。目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねたりしました。そのほかにも、さまざまなことを言ってイエスをののしり続けました。。

 18章31節(P.145)以下で、イエスは12人の弟子を呼び寄せて言われました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」と言って、ご自身の苦難について「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」と言われました。

 

 イエスは自分の道の先に、苦難が待っていることを知りながら、歩まれました。それは、罪人を救うという神の御心を成し遂げるためでした。

 

 夜明けと共に裁判が始まります。今は過越の祭の最中です。それでもイエスを死刑にしたいエルサレムの指導者たちは、事をすみやかに進めるために夜明けと共に裁判を始めます。

 長老、祭司長たち、律法学者たちは集まり、イエスを最高法院に引き出し尋ねます。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」

 

 ヘブライ語のメシアというのは、ギリシャ語のキリストという意味であり、「油注がれた者」という意味です。神が預言者や王など、神の務めのために油を注いで聖別した者を指します。それが時代を経るにしたがって、神が最後にお遣わしになられる救い主を表す言葉となっていきました。

 

 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」彼らは、神を冒涜した罪で、イエスを死刑にしようとしているのです。

 イエスは答えます。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」

 

 わたしたちの信仰は、神と共に生きる信仰、神との交わりに生きる信仰です。語りかけられる神の言葉に応える信仰です。ですからわたしたちの礼拝は、聖書朗読と説教を聞いた後に、信仰告白をもって神に応答するのです。

 

 イエスは、自分を訴えるための証拠を得るために質問されても、丁寧に答え、神の御心を明らかにし、教えてこられました。

 エルサレムに来られてからも、毎日神殿で教えておられました。20章1節(P.148)以下にこう書かれています。「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。』イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものたっだか、それとも、人からのものだったか。』彼らは相談した。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。「人からのものだ」と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネ預言者だと信じ込んでいるのだから。』それで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」

 彼ら指導者たちには神の御心を聞き取り、民に教える務め、責任がありました。しかし、彼らは自分たちの都合のためにその務めを放棄し、分からないことにしてしまいました。神に託された務めを放棄し、神に応答しない者は、神が裁かれるでしょう。わたしたちの教会では、この務めは小会・中会・大会が担います。これらの会議を構成する牧師と長老の責任は重いのです。その務めを侮るとき、神の裁きを受けることを覚悟しなければなりません。

 

 イエスはこの自分の命の掛かった裁判で、「しかし、」と言って語り出されます。

「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」。そこで彼らは尋ねます。「では、お前は神の子か」。イエスは言われます。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」すると彼らは言います。「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」。

 70節でイエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」と答えられています。一見すると、イエスは答えを避けられたように聞こえますが、これは自分たちが神の前で判断し、応答すべき事柄をごまかしている彼らに対して、「あなた方がわたしを見て聞いて判断すべきことだ」と問いかけておられるのです。

 そしてここでも彼らは自ら判断せず、「我々は本人の口から聞いたのだ」と言ってイエスにすべての責任を押しつけ、自分たちに不都合なイエスを亡き者にしようとするのです。

 

 イエスは、神の真実、罪人を救うという神の真実を証しするために、自らの命をかけて語られました。

 わたしたちは今、このイエス キリストの前に立たされています。主イエスはわたしたちの応答を待っておられます。

 罪ある者はそれをごまかそうとするか、沈黙をもってそれをながそうとします。けれど聖書が言うとおり「裁きを受けないようにするために、あなたがたは、『然り』は『然り』とし、『否』は『否』と」しなければなりません。(ヤコブ 5:12)(P.426)。

 

 神が御業をなされました。神は語りかけられました。それに対してわたしたちはどう答えるのでしょうか。

 わたしたちは、礼拝において説教の後に信仰告白をします。神の言葉に対して、わたしたちはあなたの言葉をこのように聞きました、わたしたちはこのように信じます、と言ってまずイエス キリストがわたしたちの主であるということから始まって、告白をしてまいります。神と共に生きようとするとき、神の言葉、神の御業、そして神ご自身に応える、それがわたしたちに求められている信仰です。

 

 わたしたちの日常生活でも、聞いているのにそれに答えが来ない、対話が成り立たないとき、共に生きるということが難しくなってきます。

 神は言葉を発し、その言葉は出来事になります。その神にかたどってわたしたちは造られました。

 わたしたちは、神に応答していくとき、わたしたちの言葉は空しいものではなく、出来事になると信じることのできるものとされていくのです。

 

 イエス キリストは、聖書を通して今わたしたちに語りかけ、問いかけておられます。わたしたちは今、イエス キリストに何と答えるのでしょうか。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113450

 

 

祈ります。

 

 天の神さま、わたしたちはこの世の諸々の事柄に心奪われ、あなたの御前で言葉を失ってしまうような弱き者です。しかしながら、そのようなわたしたちのために、イエス様をわたしたちに下さり、救いの約束を示してくださいました。ただそのことに全てを託し、信じて歩んで行くことの出来ますように、守り導いてください。

この一言の祈り、主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。

アーメン

 

 

 もちろん、信じることも大事です。罪によって信じられなくなったわたしたちに神が与えてくださった恵みです。信じること自体恵みです。

 神が、信じることのできる愛と真実をイエス キリストによって与えてくださったので、わたしたちはキリストを信じることができるのです。イエス キリストによって、神との間に信じるという関係が造り出されたのです。

 

 わたしたちが生きているこの罪の世は、罪ゆえにいろいろ信じられないことがたくさんあります。けれども、わたしたちは何も信じることができないとしたなら、生きていくことができません。わたしたちが生きていくということは、信じることによって支えられています。それは100%の信頼でなくとも、家族の間に、友との間に、そして隣人との間に信じられる関係があってこそ、わたしたちは生きていくことができます。

 けれど、罪の中で傷つき、疲れてしまうわたしたちに対して、罪により滅びへと導かれて行ってしまうわたしたちに対して、神はイエス キリストによって本当に信じることのできるもの、自分の人生を、そして愛する者たちを委ねていくことのできる信じることのできるものを、与えてくださいました。イエス キリストによって、神との間に、今生きているということに対して信じることのできる関係を、イエス キリストが与えてくださいました。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/11/22/113906

 

 

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