風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

夫の最後の音声配信「愛について」

 

夫が最後に録音した音声配信(2月21日の夕方)。

 

stand.fm

 

2021年2月21日は、礼拝後、疲れたと言って昼食前に少し休んで1時過ぎに昼食を摂った。その後元気になって、その日の礼拝説教の録音を聞いて原稿に手を入れブログにアップした。

そして、今年に入ってから始めていたこの音声配信の最後の回を録音するということで、夕方会堂の二階に上がって録音をしたのだった。

 

夫は、キリストのことを伝えずにはおれないというような人だった。

神のことを、神の愛を、伝えたくて、語りたくてしょうがないという人だった。

ブログへの説教のアップも、音声配信の録音も、「明日にしたら」と言えば良かったかと後になって思ったりもするが、夫自身は、やりたいことをやって悔いは残していないだろうと思う。

 

寝る前の最後の言葉は、私が夫の説教をブログにリンクしたことに気づいていたようで、「ブログに載せてくれてありがとう」だった。

 

私と夫の信仰は真逆のようだった。

この最後の音声配信「愛について」の中で語られている「聖書は『愛しなさい』とは言っても、『好きになりなさい』とは言いません」というような言葉を聴いても、好きでもない人を愛そうとするには相当の意志が必要だから無理でしょ、と私は言いたくなったりするのです(笑)。

 

けれど、最後にした礼拝説教では、夫と私の信仰が一つになったように思えたのだった。

 イエスが救いの核心、救いの秘義とも言える話をしたために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。彼らは、まだ罪に気づけず、命と未来が神の許にあることが分かりませんでした。

 わたしたちは、信じない者から信じる者にパッと変わる訳ではありません。わたしはずっとイエスがなぜ十字架にお掛かりにならねばならなかったのか、なぜ神がひとり子を遣わすという仕方で救いをなさらなければならなかったのか、理解できずにいました。信仰をもって歩み始めてからも、なぜこのようなことがわたしの人生に起こるのか、神に祈り求めつつ歩んでいるのに、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、神の御心が分からないことがたくさんありました。それでも、主はこのわたしに語り続けてくださいました。分からない理解できないときにも、語り続けてくださったから、理解できる時へと導かれてきました。

 そして今もまだ途上にあります。わたしの願いの一つは、神の御心が自分の思いになることですが、罪の世にあって生きる間は、なかなかそうはいきません。けれども一日一日、一つひとつの出来事を通して、神はわたしにお示しくださいます。あぁ主よ、そうだったのですかと、気づくように導いていてくださいます。イエスは自分の許を離れていく者、自分を裏切る者をもお見捨てにはなりません。その救いを願って、語り続けてくださいます。

 

 そしてイエスは本物の救いを与えようとされました。いつも、誰に対しても、イエスは本当にその人を救う救い、神へと立ち帰らせ、神と共に生きる本当の救いを差し出しておられます。丁度聖晩餐において、「取って食べよ」とパンが差し出され、「この杯から飲め」と杯が差し出されるように、わたしたちを本当に救う救い、イエス キリストご自身を差し出していてくださいます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いであり、わたしたちの命なのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 共に生きることを願ってわたしたちを造り、罪を犯してなおひとり子を遣わしてまで、わたしたちを命へと導いてくださり、感謝します。御子はその命のすべてを与えてくださり、わたしたちを御子の命に生きる者としてくださいました。あなたの救いの恵みは、わたしたちの思いを超えて、理解し尽くすことはできません。主がわたしたちのために備えてくださった聖晩餐の恵みを通して、あなたへと思いを馳せ、命を望み見ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/02/21/150544