風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「主の名を呼び求める者」が「皆、救われる」ために・・。

「ヨエルの預言が実現した」

 

 2022年6月12日(日) 聖霊降臨日後第1主日

聖書箇所:使徒言行録 2章14節〜24節

 

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(1:3)。そしてイエスは「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(1:5)と言われました。

 イエスが天に昇られた後「 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(1:14)。イエスが「わたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」(1:4)と言われ、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ 11:13)と教えておられたからです。

 そうして10日ほど経ち、五旬祭を迎えました。五旬祭の旬は、10日を表します。今も月の上旬、中旬、下旬というように使います。ですから、五旬祭は50日の節目です。これは過越祭から7週間、50日目を指しています。元々のペンテコステという言葉も50番目という意味です。

 旧約では刈り入れの祭り(出エジプト23:16)や七週祭(出エジプト34:22)とも呼ばれ、小麦の収穫を祝うときでもあり、出エジプトをした後、十戒を与えられたことを覚え、律法を感謝するときでもありました。

 

 この五旬祭の日に皆が集まっていると、一同が聖霊に満たされ、いろいろな国の言葉で語り出すという出来事が起こりました(2:1~4)。これが聖霊降臨の出来事です。

 いろんな国の言葉で語り出したのは、キリストの福音、神の救いの御業が全世界の人々に宣べ伝えられるしるしであり、キリストの弟子たちが使徒として世界に遣わされるしるしでした。使徒という言葉「アポストロス」は「派遣された者」という意味です。

 

 この日、エルサレムは五旬祭の祝いでいろいろな国からユダヤ人が集まってきていました(2:5)。聖書は「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」(2:6)と記しています。そして聞いた人たちは「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(2:11)と言って驚きました。神の大きな働きとは、神がなしてくださった救いの御業です。しかし、中には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(2:13)と言ってあざ笑う人もいました。

 

 すると、ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めました。(2:14)。

 ペテロの主張は、この出来事はヨエルの預言が実現したということです。

 ペテロはヨエルの預言を引用して語ります(ヨエル 3:1~5)。この預言は前半と後半と2つのことを告げています。

 前半は「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(2:17~18)

 

 ここでは、神がすべての人に霊を注ぎ、彼らは預言する、と言われています。預言は、言葉を預かると書きます。神の言葉をあずかって語る、ということです。そして神の言葉を語るには、神の霊、聖霊が注がれることが必要だということです。

 

 神はご自身をすべての人に知らせようとされています。神に立ち帰り、神と共に生きることこそ、救いだからです。だから聖霊降臨によってそこにいたすべての人に神の御業が告げ知らされました。そしてヨエルの預言は、神はすべての人にご自身の霊を注ぎ、すべての神の民が預言する、と語ります。若者も年寄りも、男も女も、そして僕(奴隷)もです。

 

 わたしたちは神の僕です。神はわたしたちに神の言葉を語らせようとしておられます。神を信じる者、神に従う者は、この御心を知って「主よ、お用いください。聖霊をお注ぎください」と祈らねばなりません。「神さま、救いはください。しかし、語るのは辞退します」とはいきません。

 モーセは「わたしは口も重く、舌も重い者なのです」(出エジプト4:10)と言って神の召しを断ろうとしました。エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)と言って辞退しようとしました。

 しかし神は、そのような言い訳をお認めにはなりませんでした。

 わたしたちは神の御心によって救われたのです。だから神の御心に従うのです。

 神はわたしたちの欠けも弱さも知っておられます。それでもわたしたちを選び、救いに招き入れてくださいました。そして神は、わたしたちをお用いになられるのです。

 わたしたちは、わたしたちのために御子をさえ遣わし与えてくださる神の御心と御業を信じて、自分自身を神に委ねるのです。

 そして、神と共に生きるのには、聖霊なる神が必要です。だからわたしたちは「聖霊をお注ぎください」と祈るのです。

 

 

 預言の後半は、主の裁きのときに「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(2:21)ということです。

 

 4章12節では「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と言われ、ローマの信徒への手紙 10章17節では「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と言われています。

 ペテロもここでイエスのことを語り始めます。神がイエスを遣わされたこと、神の民であるあなたがたがイエスを十字架につけて殺したこと、しかし神はイエスを復活させられたことを語ります。

 

 そして今日に至るまで、教会はイエス キリストを宣べ伝えています。「神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」とコリントの信徒への手紙一 12章3節で言われているように、聖霊によってキリストと出会わせていただき、信仰を与えていただいて、教会はキリストを宣べ伝え、神の救いの御業を告げ知らせてきました。

 

 聖書は「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ2:4)と告げています。わたしたちは、この神の御心がなることを願っています。そして神は、御心をなすためにすべての人に聖霊を注がれます。わたしたちは、神の御心と御業を信じて、聖霊に満たされ導かれていくことを祈り求めていきましょう。

 

昨日、代読して頂いたこの説教には、「神はわたしたちに神の言葉を語らせようとしておられます。神を信じる者、神に従う者は、この御心を知って「主よ、お用いください。聖霊をお注ぎください」と祈らねばなりません。「神さま、救いはください。しかし、語るのは辞退します」とはいきません」と、少し厳しめの言葉が語られている。

 

牧師になった若い頃から夫は、長老も説教をしなくてはいけない、神学校は通信教育をしてでも信徒説教者を育成しなければいけない、と語っていた。

大会などでもそういった発言をしていたようで、神学校出たての若造が偉そうにと思われていたことと思うが、語る者が足りなくなっている今となっては、夫が言っていたことは聞かれるべきだったろうと思われる(笑)。

 

どうして語らなければならないのか?

神が、ご自身をすべての人に知らせようとされているからであり、

神が、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」おられる(1テモテ2:4)からだ。

そして、「主の名を呼び求める者」が「皆、救われる」(2:21)ために、である。

 

 

「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。

それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙10:13~15)