「福音の初め」(マルコによる福音書1:1)
福音書はそれぞれ特徴のある書き出しで書き始められています。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という一文で始まります。
(略)
このイエス キリストの福音は、イエス キリストがご自分の命を懸けた十字架と復活によってなされました。ですから、イエス キリストの福音はイエス キリストがもたらしてくださった良い知らせであると同時に、イエス キリストご自身が良い知らせそのものなのです。イエス キリストが福音なのです。
(略)
神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。
少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。
(略)
イエス キリストの福音は、単なる知らせ、ニュースではなく、わたしたちを本当に罪と死から救い出し、新しい神の民、キリストと共に新しい命に生きる者と変えるものです。
単に暦が改まるだけでなく、キリストの福音によって、わたしたち自身が新しくされるのです。聖書は告げます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント 5:17)
神の子イエス キリストの福音を、神が語り告げられます。わたしたちを救うイエス キリストの良き知らせがわたしたち一人ひとりの上に今も新たに始まるのです。
(全文→https://myrtus77.hatenablog.com/entry/2023/01/01/200017)
私は、自分のブログや『聴く』に夫の説教を抜粋して載せてきた。もちろん夫の了解は得ていたが。
どうして抜粋して載せるのか?
昔の先生は長くお説教をしていたようだが、実際 集中して話を聞くことができるのは何分くらいだろうか?このところの夫は、長くても20分と、短い説教を目指していた。
札幌時代に小学校で昔話の読み聞かせをしていたこともあって、子ども達が喜んで耳を傾ける内容というのも然る事ながら、時間というのもとても重要視していたように思う。
書かれたものは、耳で聞いて聞き落としたものでも読み返すことができるが、全部を読み返すのは歳と共に困難になっていくように思われる。
そんなこともあって、抜粋で載せるということをする。
しかし、それだけではない、と思う。
私が抜粋して載せた説教は、私が聞き取った説教なのだ。謂わば、それはもう私の説教だと言える。
昨年久しぶりに行われたイヴ礼拝でお説教をして下さった先生は、「今は火事などを心配してやりませんが、昔のキャンドルサービスというのはロウソクの火を隣の人に分かち合っていくということをしました」と話された。
説教の抜粋も、私にとっては、聞き取った福音を分かち合っていく行為なのだと思う。