風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「キリストの復活がなかったなら」ー 一足早いイースター礼拝より

来週4月17日がイースターですが、うちでは、退職教師による一足早いイースター礼拝を持ちました。

 

以下、説教

「キリストの復活がなかったなら」

 
 2022年4月10日(日) イースター礼拝 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一 15章12節〜20節

 
 こうして、主イエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をみなさまとご一緒にできますことを神に心から感謝したい。

 世間では、イースターはクリスマスほどににぎやかに祝われないが、イースターの重要性はクリスマスと変わらない。先ほど読んでいただいた聖書の個所にはそのことが極めてはっきりと記されている。その理由を聖書に基づいてご一緒に考えてみたい。

 

Ⅰ死者の復活を否定する見解

 最初の12-13節で、この手紙の著者である使徒パウロはコリントの教会の中に死者の復活はないと主張する人々のいることに驚き、キリストを信じている者がそういうことを言うのが理解できないと言っている。ここで「死者」と言っているのは、死者一般ではなくキリストを信じて死んだ人たちである。洗礼を受けて死んだ人々が復活していないと言うので あれば、それはキリストの復活を否定することだと言っているのである。キリストの復活と信仰者の復活は絶対に切り離すことはできない。固く結びついている。わたしたち人間を復活させるためにこそ、主イエス・キリストはわたしたちと同じ人間になられたからである。

 そもそも、信仰者が洗礼をうけたのは主イエス・キリストの死と復活にあわせられるためである。パウロは、他の手紙でこう言っている。「それともあなたがたは知らないのですか。・・・わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3-4 p.280)主イエスは、罪と死に勝利した自分のご生涯を洗礼においてわたしたち信仰者のものにしてくださった。これが洗礼によって与えられる恵みである。だから、使徒パウロは信仰者である死者の復活を否定する者は事実上キリストの復活を否定することだと言っているのである。

 それでは、死者の復活を否定する者たちは完全に死後の命を否定したのかと言えばそうではないであろうと言われる。彼らは、当時一般的に受け入れられていた霊魂不滅説に立っていたのではないかと思われる。霊魂不滅説は、ギリシャ思想で肉体は魂の牢獄であって肉体を脱ぎ捨てることが救いと見なすものである。これは、日本人が一般に受け入れている考えでないか。肉体を牢獄とはみなさないが、魂はそのまま死後も生きつづけると信じている。しかし、キリストの復活はそれとは違う。キリストの復活は、単に魂が肉体から離れて行ったというのではなく、体をもって復活された。福音書は、どれもキリストが葬られた墓がからであったと記している。また、復活された主イエスが、復活を疑う弟子のトマスに向かって「さわってみなさい」といわれたし、他のところではあえて魚を口にされ、地上のみ体とは違った霊の体ではあるが、体をもった復活であることを示された。パウロは、このような復活がわたしたち信仰者の復活であることを言っているのである。

 

Ⅱキリストの復活こそ信仰の土台

 キリストの復活の重要である理由がもう一つある。それは、もしキリストの復活がなかったならキリストの宣教やキリストを信じる信仰は無意味になってしまうということである。

 聖書がキリスト教の正典であり、土台であることは、よくご存じである。その聖書、特に新約聖書福音書は、キリストの復活を目撃した弟子たちが記したものである。単なる伝記ではない。復活して目に見えないが、今も生きて救いのみわざをなさっておられる主イエス・キリストに出会い、救われるために記されたものである。だからキリストが復活されなかったなら弟子たちは福音書を記さなかったであろう。キリストの復活がなくても弟子たちは主イエスの教えを残したのではないかと言う人があるかも知れないが、彼らにはそのような考えはさらさらなかった。使徒言行録の最初の部分を読むと自分たちは復活の証人であるという明確な自覚があった。決して教えの証人であるとは言わなかった。弟子たちが迫害を受けたのは、キリストの復活を語っていくら禁じてもやめなかったからであった。(使徒言行録4:1-4)

 また、弟子たちの伝道を支えたのは、キリストが復活して今も生きておられるとの信仰であった。キリスト教会は、最初からキリストを拝み、讃美し、キリストに向かって祈るのである。弟子の一人、ステファノという人は「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈って平安のうちに殉教の死を遂げているのである。(使徒言行録7:59)キリスト教会の2000年以上にわたる歴史は、この信仰の歴史であった。

 

Ⅲキリストの復活こそ罪の赦しの土台

 キリストの復活が重要である最大の理由は、キリストの復活こそ、わたしたちの罪が赦されている根拠だからである。17節以下が強調している点である。わたしたち信仰者の中には、キリストの復活を信じてはいるが、キリストの復活が自分の罪とどのような関わりがあるか考えたことのない人があるかもしれない。しかし、大変深いかかわりがある。

 先ほど、わたくしは、キリストの復活がなければ聖書は記されなかったと言いました。特に福音書を読んで気づくことは、主イエスの33年のご生涯のうち最後の一週間、それも十字架の死について多くの紙面をさいているということである。これは、キリストの十字架の死が単なる一般の人間の死とは違って、人間の罪を贖う、あるいは償うに十分であったことを示すためである。キリストの復活はそのことを裏づける事実なのである。復活がなければ主イエスの死は犬死に等しい。

 聖書は、キリストの復活を神の行為として記している。「神がキリストを復活させた」(15節)か「キリストは復活させられた」(12節、13節、14節、16節、17節、20節の直訳)主イエスは十字架上で息を引き取られる直前に「成し遂げられた」と言われたが、それを裏付ける事実が復活である。

 さらに聖書は、キリストの復活は、わたしたちの復活の「初穂」(20節)であると言っている。聖書では、初穂は収穫全体の品質を表すものであり、全体を代表するものと見なされている。初穂をささげることは、全体をささげることを意味した。パウロは、ローマの信徒への手紙でこう言っている。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(4:25 p.279)

 今や、わたしたち信仰者の罪は滅ぼされ、もはや罪と死の実権は奪われている。確かに、罪は世にあるし、わたしたちの内にもある。しかし、それは罪と死の残党である。多少の痛手を受けるかもしれないが、敗北することはない。復活のキリストとわたしたち信仰者は一つだからである。このあと執行される聖餐式は、これを改めて示してくれる。感謝して与りたい。

 

力強いお説教に感謝でした。

娘は、「父なる神が、イエス(キリスト)が十字架上で死なれたことを喜ばれた」と語られたところに捉えられたと言っていたが、その部分は原稿にはない。

また、ラザロはイエスに生き返らせられたが、「ラザロは死からの復活の初穂ではない、ラザロはその後、人生の最後にもう一度死ぬのだ」とも語っておられたが、その部分も原稿にはなかった。

説教というのは、生(なま)物だなと思う。その時、その場所で生きて働いているのだ、と。

 

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今日お墓で歌った讃美歌、

518番ー3

ともし火ともしてつつしみ待たばや、主かどに来まさば、よろこび迎えて、

親しくわが主に告げまつらまほし、「救いを受けしは、み恵みなりき」と。

 

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みたいだな。

 

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