風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「主の祝福に覆われて」(使徒言行録1:3〜11)

今日、礼拝を行って下さった先生のお説教原稿はメモ書きということなのだが、良くまとまっているので、実際に語られた内容には少し足りない部分もあるのだが、このまま掲載させて頂こうと思う。

 

「主の祝福に覆われて」(使徒言行録1:3〜11)

 今朝は主イエスの昇天と、それを弟子たちがどう受け止めたかを、ルカによる福音書の終わりと、同じルカによって記された使徒言行録の最初を通して聞き、私たちに与えられている祝福について思いを馳せたいと考えました。

 今年のイースターは4月9日でしたね。そこから数えて40日、今週の木曜日が主イエスの昇天日になります。多くのプロテスタント教会は、クリスマス、イースターペンテコステのようには昇天日を教会暦の中に位置付けていません。でも、聖書に記されている出来事を皆さんとご一緒に聴きたいと願います。

 

 ご復活ののち、40日にわたって、たびたび弟子たちに現れてご自身を示し、パンや魚で彼らを養い、彼らを教え、励まされた主イエスが、ついに彼らを離れて、天に上げられたのです。弟子たちは、どうして戸惑い、悲しまずにいられるでしょうか。もう、愛する主イエスをその目で見ることも、親しく語りかけられることも無くなったのですから。ところが、聖書は驚くべき言葉を、私たちに告げています。招詞で読んでいただいた箇所です。

ルカによる福音書24章 52〜53節
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた

 

 いったい何故このようなことが可能だったのでしょうか。

 

ルカ24章50〜51節
エスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

 

 「祝福しながら」という小さな言葉に注目しましょう。口語訳聖書では「祝福しておられるうちに」と訳されていました。主イエスは祝福しておられる最中に、弟子たちから離れられたのです。私たちも、愛する存在と別れる時、その最後の姿、最後の言葉を記憶にとどめようとします。後に教会の礎となった弟子たちの目と耳と、心とに刻みつけられたのは、「主は私たちを祝福しておられる」という事実でした。

 

 この祝福は続いています。今日の教会、今の私たちにも与えられています。

 

 この祝福が、主の昇天と再臨の間の時を満たしています。この祝福の下でこそ、私たちも安んじ、喜び、感謝し、神をほめ讃えることができるのです。

 

 さて、使徒言行録1章でもまだ、十字架の死から復活されて、40日間この地上で御姿を現され弟子たちを教えられ、天に昇られようとされる主イエスと、弟子たちの間には、まだまだ大きな溝があります。6節。「イスラエルのために国を建て直してくださる」ことを期待する弟子たちの主に対する質問が、それを象徴的にあらわしています。それに対する主のお答えは7節、8節です。

 復活の主のご命令は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。」ということでした。いまだにイスラエル王国の復興繁栄を夢見ている弟子たちに、“むしろ、この世に、自分たちの理想の国ができるよりも、あなたがたに聖霊が降ることが大切である”、「あなたがたに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムだけでなく地の果てまでも、わたしの証人となる」と主イエスは話され、弟子たちの目の前で天に上げられ、彼らの目から見えなくなったのです。天を見上げて立つ弟子たちに、天使が、“主イエスはまたおいでになる”と告げます。

 主イエスは、なぜ、その肉体をもって(それは幽霊ではなく)40日にわたって度々現れてくださったのでしょうか。死の力に対する勝利を弟子たちに確認させてくださるためです。そして、主イエスが死の力に勝利されたのは、神の御子がヒーローのように立ち現れ、その権威を見せつけるためではありませんでした。罪と死の虜になっているわたしたちを解放し、創り主なる神さまの元に返してくださったのです。

 「わたしたちは神さまのもの」と信仰問答で教えられるとおりです。使徒パウロはエフェソ1章でわたしたちキリスト者は「約束された聖霊で証印を押された」と告げています。

 弟子たちは、主イエスの言葉を信じて、じっとエルサレムに留まって、皆で一つの部屋に集まり、心を合わせて熱心に祈り、聖霊を待ちました。聖霊なる神さまが降り、働いてくださらなければ、御言葉を宣べ伝え、主イエス・キリストを証ししていく使徒となることはできないのです。

 約束された聖霊ペンテコステの出来事において与えられ、教会が誕生します。今を生きる私たちは、天におられる主イエスを、目で見ることはできませんが、教会へと招かれ、教会に連なるものとされていることは、すでに聖霊の働きの下に置かれているということです。聖霊は、私たちの心の目を開いて、聖書を悟らせ、主イエスの十字架の死と復活が、この自分のためであり、神さまが独り子の命さえも与えてくださるほどに、この私を愛しておられることを確信させてくださいます。

 

 主イエスが天に昇られ、見えない方になられたからこそ、その天から聖霊が与えられ、神さまの力が豊かに働いて、主イエスを証しする人たちが、教会が、たてられたのです。そして聖霊の働きによって、目には見えない主イエスが、いつでも、どこでも、どんな時にも、私たちと共にいて下さるのです。主の昇天は、神さまの救いの御業の前進なのです。

 

 主の祝福に覆われてこの週も歩みましょう。

 

 

前の面会の時、眠っているあなたに話しましたが、代読して頂いたあなたの説教がとっても良かったです。○○も良かったと言っていました。

この前の日曜は、○○○○○先生が来て下さいました。○○先生もいつも良いお説教をしてくださいます。

「信仰義認(しんこうぎにん)」の解釈がきちんと土台に据えられているんだな、と思えます。(5月19日の夫への手紙から)