風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「主イエスが選んだ弟子たち」(マルコによる福音書3:13~19)

「主イエスが選んだ弟子たち」

  2023年5月7日(日) 復活節後第4主日

聖書箇所:マルコによる福音書  3章13節~19節

 

 1.(主の日ごとに主の御前へと召し集められて礼拝を捧げる)

 イエスは湖のそばから山へと移られました。イエスが山へ行かれたのは,人々から離れて神との静かな時を持つためでした。6章46節には「群衆と別れてから,祈るために山へ行かれた。」と書かれています。神の独り子イエス キリストは,常に父なる神の御心に従って歩まれ,父なる神と共におられました。ですから,わざわざ祈るために人々から離れて山へなど行かれなくとも大丈夫ではないかと思ったりします。しかし,人が神と共に生きるためにはすべてを置いて,離れて,神の御前へと進み出て静まる時が必要なのです。そして,神へと思いを向け,祈りつつ神の御心を聴くのです。福音書の中にはイエスが山へと行かれる場面が何度も出てきます。イエス キリストの生涯には,神の御前に進み出,静まり祈ることが欠かせませんでした。そうであれば,なおのことわたしたちには必要です。わたしたちが主の日ごとに主の御前へと召し集められて礼拝を捧げる大切な理由の一つがここにあります。わたしたちが生きるその場に神は共にいてくださいます。けれど,わたしたちが主と共に生きるためには,すべてを置いて,離れて,神の御前へと進み出て静まる時が必要なのです。主の日の礼拝は,神がそのために備えてくださった恵みの時なのです。最近,中会や大会の礼拝においても携帯電話がかかってきて,礼拝堂を出て行く人がいることがあります。人が手にしてきた文明の便利さの中で,礼拝の意義が薄れ,忘れられようとしています。すべてを置いて,神の御前へと進み出ることが必要なのです。だからこそ,神はわたしたちのために礼拝の時を備えていてくださるのです。ヨハネによる福音書4章23-24節、霊と真理をもって礼拝するというイエスの言葉を言葉だけの空しいものにしてはなりません。

 

 2.(イエスに召され,呼び寄せられた者たち)

 さて,並行箇所であるルカによる福音書6章12-13節の12弟子の召命の記事には「イエスは祈るために山に行き,神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め,その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」とあります。マルコによる福音書には「これと思う人々を呼び寄せ」たとありますが,これは祈り,神の御心を求めて,イエスご自身がお決めになったということなのです。選ばれるのは,神ご自身であり,主イエス キリストです。人が選ぶのではなく,神がお選びになります。これは選びに対して神がいっさいの責任を負われるということです。

 イエスに召され,呼び寄せられた者たちはイエスのそばに集まってきました。そこで,12人を任命し,使徒と名付けられた。12というのは,イスラエルの12部族に符合する数字で,すべての神の民を表す数字です。彼らが召されたのには3つの理由がありました。一つ目は,イエスご自身のそばに置くためでした。二つ目は,使徒たちを遣わして福音の宣教に当たらせるためでした。三つ目は,罪の苦しみの中へと人々を惑わす悪霊を追い出す権能を持たせるためでした。使徒たちは,すべての神の民にキリストの福音を宣べ伝えるために遣わされます。悪霊を追い出し,キリストがその人を満たすために遣わされます。

 そのためには,使徒たち自身がイエスと共に生き,イエスをよく知って,イエスに満たされなくてはなりませんでした。十字架へと進まれるイエスを理解し,イエスが救い主キリストであるとはどういうことかを知らねばなりませんでした。

 

 3.(主によって選ばれたわたしたち)

 しかし,福音書が告げる使徒たちの姿はイエスを理解できない使徒たちの罪の姿でした。例えば最初に名前を挙げられているペトロは,イエスがご自分の十字架について語られたとき,まるで理解できず「そんなことがあっていいはずがない」とイエスをいさめてイエスから「サタン,引き下がれ。あなたは神のことを思わず,人間のことを思っている。」と叱られました(8:31-33)。また自分の罪も理解しておらず,弟子たちは皆イエス自身に躓くと言われたときもペトロは「たとえ,みんながつまずいても,わたしはつまずきません」と主張し,イエスが「あなたは今夜,三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われるとペトロは力を込めて言い張りました。「たとえ,御一緒に死なねばならなくなっても,あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」けれど,ペトロはイエスのことを知らないと言ったのです。最後に名前が挙げられているイスカリオテのユダが直接イエスを裏切りましたが,イエスエルサレムの指導者たちの手によって捕らえられたとき,使徒たちは皆,イエスに躓き逃げ去りました。わざわざ山へと退かれ,祈って選ばれたのがこの人たちか,イエスご自身がこれぞと思って選ばれたのがこの人たちなのか,と思われるような人たちです。しかし,父なる神の御心があり,イエスご自身が選ばれたのです。キリストの福音を宣べ伝えるため,ご自分を委ねるために自ら選ばれたのです。人の目にどのように映ろうとも,彼らは主ご自身が選ばれたのであり,主が彼らに対する責任を負われるのです。

 これはわたしたちに対しても同じです。わたしたちも今、主の日ごとに主の御前へと召し集められて○○教会で礼拝を捧げています。主に選ばれ,名を呼ばれて召し出され、主の日の礼拝を捧げているのです。「あなたのどこがキリスト者にふさわしいのですか」と問われれば一言もありません。しかし,そのわたしに対して主が全責任を負ってくださるのです。わたしの罪も欠けも弱さも愚かさも,躓くことさえ,裏切ることさえ知ったうえで主は選び,名を呼んでくださったのです。わたしがあなたを選んだのだと主は言われるのです。わたしが主を愛したのではなく,主がわたしを愛して,ご自身の御許へと選び出してくださったのです。選びについて聖書はこう言っています。

 (ヨハネ15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 (コリントの信徒への手紙一1:26-31)「兄弟たち,あなたがたが召されたときのことを,思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく,能力のある者や,家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが,神は知恵ある者に恥をかかせるため,世の無学な者を選び,力ある者に恥をかかせるため,世の無力な者を選ばれました。また,神は地位のある者を無力な者とするため,世の無に等しい者,身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは,だれ一人,神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ,このキリストは,わたしたちにとって神の知恵となり,義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」

 自分を誇るのでも,人を誇るのでもない。主ご自身を誇りとするため,誰にとっても同じ主が誇りとなるため,選ばれ,召されたのです。主が知恵であり,義であり,聖であり,贖いなのです。

 

 4.(主によって結び合わされたわたしたち)

 使徒たちは主が選ばれたということによって結び合わされた者たちでした。最初の4人はガリラヤの田舎の漁師でした。その彼らが主から名前を付けられ,新しい人生を歩み出しました。マタイは徴税人です。ユダヤを支配していたローマの税金を集める人で,人々から嫌われていました。熱心党のシモン,熱心党はローマの支配を打ち破るために立ち上がり,ローマと戦おうという人たちです。徴税人のマタイと熱心党のシモンは一緒にいることのできない人たちです。けれど,主の選びが彼らを共に歩ませたのです。バルトロマイやアルファイの子ヤコブ,タダイはどういう人なのか,どんなことをしたのかよく分からない人たちです。人に知られる働きをする人たちもいます。しかし,人に知られず,自分でも気付かない働きをする人がいます。そしてそのような働きの方が多いのです。一人ひとり,神から与えられた賜物も違い,神が用いられる仕方も違います。違いはあっても,主ご自身が召されたことに変わりはありませんし,主と共に歩むように召され,キリストの福音が委ねられていることに変わりはありません。復活を信じられなかった疑い深いトマスがいます。そして主を裏切るイスカリオテのユダがいます。信じられないことにも,裏切ってしまうことにも,主が責任を持ってくださるのです。そして,そのような者にも主はご自身を差し出し,与えてくださるのです。

 教会も同じです。わたしたちも今、主の日ごとに主の御前へと召し集められて○○教会で礼拝を捧げています。一人ひとり,信仰も違います。賜物も違います。性格も違うし,働きも違います。けれど,そのわたしたちを主の選びが,名を呼び招かれる主の御声が,わたしたちを主の御前で出会わせ,結び合わせるのです。信じられない,躓き裏切ってしまう。そういうことも現れてきます。しかし,そんなわたしたちのすべてに対してイエス キリストが責任を持ってくださるのです。わたしたちを主ご自身のものとするためにイエス キリストは命を懸けてくださったのです。

 

  5.(罪に勝るキリストの愛を知る)

 使徒たちはイエスが呼び寄せると,そばに集まりました。私たちも主の声を聴いて,主の許へと進み行く。そして,主と共にいる。これが大切です。キリストと共にあり,キリストと親しく交わる。これがわたしたちを新しくします。主と共に生きるとき,自らの罪に気付かされることもあるでしょう。しかし,罪に勝るキリストの愛を私たちは、また知るのです。主は惜しみなく自らをわたしたちに与えてくださいます。愛するがゆえに,ご自身で満たし,わたしたちと生きてくださいます。欠けも弱さもすべて受け止めてくださり,救いの道を歩ませてくださいます。

 

祈ります

 

 教会の頭であられる主イエスキリストの父なる神さま、あなたの御名を讃美します。今朝もあなたによって召し出され、結びあわされて、主の日の礼拝をすることができ感謝いたします。あなたの御前に出るとき、私たちの罪の大きさに気づかされます。しかし罪に勝るキリストの愛を知らされます。どうか私たちがこれからも主と共にいて、救いの道を歩むようにさせてください。主イエスキリストの御名を通して祈ります。

 

 

 

アイスバーグ