風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「弟子たちは小刀を見るたびに、イエスがご自身を過越の子羊のごとく献げられたことを思い起こすのです」

この前の日曜に代読して頂いた説教は、我が夫ながら良い説教だった。

特に、「弟子たちは小刀を見るたびに、イエスは御言葉を成就するために、ご自身を過越の子羊のごとく献げられたことを思い起こすのです」、この一節が泣けた。実際に泣きはしなかったけど。

 

「御霊の剣である神の言葉」

 

 2021年10月31日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章35節~38節

 

 イエスは自分の逮捕、そして十字架によって、状況が大きく変化することを暗示しておられます。イエスの保護の許、宣教の準備段階が終わり、本格的に弟子たちが福音宣教に遣わされるため、自ら備えをして歩み出す時が来ていることを暗示されています。

 

 ただここは、理解するのにとても難しい箇所です。

 

 38節の最後に出てくる「それでよい」という言葉を、皆さんはどう聞いたでしょうか。これは、その直前に弟子たちが言った「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」という言葉を肯定した言葉として聞いたでしょうか。それとも否定した言葉として聞いたでしょうか。

 

 この言葉は、田川訳聖書によると「それで十分だ」と訳されています。

 

 これを肯定的に取ると「二振りあれば、大丈夫。十分だ」という意味です。おそらくここを読んだ多くの方が、肯定的に受け止められたのではないかと思います。

 

 ところが、わたしの手元にある注解書は皆、これを否定的に理解しています。ざっくり言うと、イエスは霊的な意味で言われたのに本物の剣を二振り持ってきたので「まだわたしの言葉が分からないのか、もう十分だ」という意味で会話を打ち切られた、という理解です。

 

 この理解を後押しするのは、この後に出てくる48~51節です。「イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。」

 

 イエスは剣を持って戦うことを求めてはおられません。またルカがこの福音書の次に書いた使徒言行録でも、宣教のために剣を持って戦うような場面はありません。

 

 こういったことから、多くの注解者はイエスの「それでよい」という言葉を否定的な意味で理解しています。

 

 確かにイエスの言葉には、霊的な意味が込められています。けれど「それでよい」という言葉を否定的に理解すると、36節の「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」という言葉が理解できなくなります。これは明らかに買い求めるように勧めています。

 

 わたしが見た注解書に、ミュルデルという人が書いたコンパクト聖書注解『ルカによる福音書 II 』と言う注解書があります。そこにはこう書かれていました。「東方では早くから、この言葉の説明で剣のことは語らず、過越の食事の前に過越の子羊を屠り解体するための小刀のことにする傾向がある。・・ルカが使っているギリシア語はそういう翻訳を許すのである」(p. 264)とあります。これが今回の箇所では最も納得できる説明でした。

 この場面は、最後の晩餐、つまり過越の食事の直後の出来事ですから、食事の準備を託されたペテロとヨハネは、過越の食事をするために子羊を屠り解体する小刀を持っていたはずです。二人がそれぞれ持っていたなら、丁度二振りの小刀があったわけです。

 

 イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨を経験した弟子たちは、迫害も伴う困難な宣教に踏み出していきます。神から与えられた者は、財布も袋も持って行くように勧められています。ただ剣だけは「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」と言われています。

 

 この剣、先ほど言いました羊を解体するための小刀は、持つべきものとして言われています。これは最後の晩餐を思い起こすための「しるし」ではないかとわたしは思います。

 最後の晩餐でのイエスの言葉、そしてイエスのなされたことを忘れずに思い起こすための「しるし」です。この小刀は、最後の晩餐に同席した弟子に対する勧めです。つまりそれを見ると、最後の晩餐のときにイエスがこう言われた、こうなされた、そういう一つひとつを思い起こしながら、福音宣教に仕えていく。そういうキリストへと思いを向けていくための「しるし」ではなかったかと思うのです。

 

 今わたしたちは、この最後の晩餐を思い起こすのは御言葉と聖晩餐です。聖晩餐は、洗礼と共に聖礼典と言われています。その聖礼典(サクラメント)は、見える御言葉とも言われます。わたしたちは御言葉である聖書とイエスが定めてくださった聖晩餐を通して、最後の晩餐そしてその後の十字架に至る出来事、イエスの言葉を思い起こしていくのです。そしてこのような「しるし」が必要だからこそ、キリストは「このようにしなさい」と言って定めてくださったのです。

 弟子たちに対しては最後の晩餐を思い起こすために、過越の子羊を屠るための小刀を携えて、キリストの救いの業、キリストの十字架と共にあるように、とお命じになったのではないでしょうか。

 

 エフェソの信徒への手紙 6章13節~17節にはこうあります。「神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。・・・・ また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 ですから、今わたしたちは御霊の剣である神の言葉を身に帯びて、宣教の業に仕えるのです。

 

 イエスイザヤ書 53章12節で「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」と言われているように、イエスルカによる福音書23章32節で「ふたりの犯罪人」と共に十字架に掛けられました。

 

 弟子たちは小刀を見るたびに、イエスは御言葉を成就するために、ご自身を過越の子羊のごとく献げられたことを思い起こすのです。

 

 このようにして自らの命を献げてわたしたちの救い主となってくださったキリストと共にあることを命じられた弟子たちでしたが、イエスが逮捕されるときには、48節~51節にあるように祭司長の僕に剣で切りつけ、イエスに「やめなさい」と止められます。なかなかイエスの御心を理解し受け止めることができません。

 

 それはわたしたちも同じです。だからこそ神は、主の日ごとの礼拝において、また週日の祈り会において、繰り返し神の言葉を聞くように、神の御許に立ち帰り、神の御心を知るようにとわたしたちを招き続けていてくださるのです。かつてサムエルがサムエル記上3章10節で「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と主に応えたように、わたしたちもまた「主よ、御心をお示しください。わたしは聞きます」と祈りつつ、神の言葉を待つ、神の言葉を聞く、そういう必要があるのです。

 

 わたしたちは恵まれた時代、社会に生きています。一人ひとりが聖書を持つことができるのです。持っている者は財布も袋も持って行くようにと言われたように、与えられた者はそれを携えて仕えるのです。

 

 日曜日に教会でだけ聖書を開くのではなく、日常の生活の中でも、聖書を開き、神の言葉を聞いて、「主よ、御心をお示しください。わたしは聞きます」と祈って、神の御心へと思いを向けていって頂きたいと思います。御霊の剣である神の言葉を身につけていく。心に蓄えていく。そして神の言葉に導かれて、神へと、神の思いへと、自分を向けていく。神の御前に立ち帰っていく。そのことを神はわたしたちに恵みとしてお与えくださっています。

 

 イエスは御霊の剣である神の言葉を、自分の上着を売ってでも求め、それを身に帯びて福音宣教に仕えるように弟子たちに対して、そしてわたしたちに対して勧めておられるのです。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/10/31/194714