風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

伝えられたもの、聴いたこと、受けとったことを語る

  「おびただしい証人の群れに囲まれて」

 

2022年11月20日(日)聖霊降臨日後第24主日【逝去者記念礼拝】
聖書箇所:ヘブライ人への手紙 11章39節〜12章2節

 

 わたしたちはきょう、先に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝を守っています。

 わたしたちの信仰は伝えられたものです。神と共に歩み、キリストに従って生きた信仰の先輩たちから伝承されたものです。

 

(略)

 

 キリストを信じた者たちは、目に見える世界よりもはるかに大きな世界に生き、今という時間からも解き放たれて生きたのです。

 

(略)

 

 ただし、彼らは救いの約束の完成をこの世において受けることはありませんでした。それぞれに与えられた生涯を全うし、地上の生涯を終えました。しかし、彼らは「目に見えない方を見ているようにして」(11:27)神と共にこの地上の歩みを全うしたのです。

 神は、すべての信仰者のために、ご自身のひとり子イエス キリストを世に遣わすという「更によいものを備えて」くださいました。1970年に発行されたNew English Bible(NEB、新英語聖書)では、「わたしたちを心にかけ、神はさらに良い計画をあらかじめ立てておられたので、先に召された信仰の先輩たちは、これから召されていくわたしたちと連れ立って、初めて完成に至る」と述べています。

 

(略)

 

 わたしたちは、いろいろなものを握りしめて、抱え込んで、生きています。しかし、どれ1つとして死を越えて、持っていくことはできません。この世に生まれるとき、何も持たないで、ただ命のみが、与えられました。そして、この世を去る時、何も持たずに、与えられた命を、主にお返しして、主の御手に受け止めていただくのです。

 この世において、良いもの、価値あるものとされる名誉や誇りでさえ、イエスに向かって走るのを妨げる重荷や絡みつく罪にしかなりません。

 信仰者が証しするのは、キリストに救われ、支えられて、キリストと共に生きたということです。立派な人生を送りましたということでは決してありません。

 召されたすべての信仰者が死を迎えるとき、何が希望であり、支えとなるのでしょうか。

 それは、イエス キリストが、わたしの救い主となってくださったということ。

 イエス キリストが、ご自分の命さえも、惜しまず、わたしの救い主となってくださったということ。

 イエス キリストがご自分の命を献げて、わたしの救い主となって、わたしを罪と死から救ってくださったということです。

 

(略)

 

 このイエス キリストに救いがあります。すべての信仰者は、この方によって救われました。そして、この方は、神が造られたすべてのものの救いのために、わたしたちのためばかりではなく、全世界の救いのためにその命を献げてくださいました(1ヨハネ 2:2)。

 

 ですから、わたしたちは、先に召された、愛する者たちを、イエス キリストにあって、確かな救いの希望の内に、思い起こすことができるのです。

 私たちに命を与えてくださった神が、私たちの死を良しとしないで、ひとり子の命を差し出してまで、お救いくださったのです。この神によって、天へと先に召されたのです。先に召された、愛する一人ひとりが、今、神の救いの内にあることを、イエス キリストが保証し、確かなものとしてくださっています。

 そして、わたしたちも、先に召され、救いに入れられた者たちの後に続くのです。信仰の創始者また完成者であるイエスをしっかりと見つめて生きるのです。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、キリストの愛に包まれているこの命、この人生を、キリストと共に生きるのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/11/20/212637

 

この説教の冒頭では、「わたしたちの信仰は伝えられたものです」と語られている。

 

説教も、「伝えられたもの」、「聴いてきたこと」、「受け止めた事柄」を語るものではないか、と思う。

だから同じようなことを語っているということが起こってくる。

 

しかしまた、伝えられたことが歪められて行くという場合がある。

人間の考えで、説教が歪められて語られる場合があると思うのである。

それは、伝えられたものというより、人間の頭の中で都合良く書き換えられたものだということだ。人間礼讃であったり、律法遵守の勧めであったり・・。

 

福音ではなく、歪められたものを聞きつづけるなら、その歪められたものを語ることになる。