風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

私たちの信仰の中心にはキリストの十字架が立っている。

  「キリストの十字架の死」

 

 2022年4月3日(日) 受難節第5主日 

聖書箇所:マルコによる福音書 15章33節~41節

 

(略)

 

 この十字架のローマ側の責任者が、百人隊長と呼ばれる100人の兵を率いる隊長でした。彼は刑執行の責任者として、イエスに向かって立っていました。彼はイエスを刑場に引き出し、十字架の最初から最後まで見ていました。その彼がイエスが息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言いました。

 おそらく彼はきょう初めてイエスを見たのではないかと思います。おそらく彼は、イエスの話を聞いたこともありません。イエスを求めていたわけでもありません。彼は自分の職務としてイエスの側近くにおり、十字架を見届けました。彼はイエスの十字架の最も重要な証人、証し人です。イエスの十字架を最初から最後まで、最も近いところで見届けました。そして、彼は「本当に、この人は神の子だった」と告白する信仰へと導かれました。

 

 信仰の中心にはキリストの十字架が立っているのです。聖書を全部理解してなくても、信仰には至るのです。しかし、キリストの十字架を知らずして信仰を持つことはできません。

 

 この出来事もまた大切な「しるし」です。それは、イエスの十字架によって信仰を告白したのが、異邦人であるということです。異邦人は、旧約を知りません。神の子という言葉の聖書的な意味も知りません。しかしそれでも、イエスの十字架と出会うとき、信仰が与えられるのです。旧約の神の民がさげすむ異邦人、信仰から最も遠いと思われる異邦人、しかもローマの命令によってイエスを十字架に付けた異邦人が、最初の信仰告白者となったのです。

 次に遠くの方から見ていた女性たちがいます。彼女たちは、イエスに従い仕えてきた者たちです。彼女たちは十字架の証人であり、埋葬の証人であり(15:47)、復活の証人(16:1~7)です。十二弟子は男性でした。しかし、信仰の最も重要な証言は、女性たちに託されました。

 百人隊長も女性たちも、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ 3:28)というキリストの福音の証しする証人です。

 わたしたちの思いを超えて、神は、神の御業から遠くにいると思われている者、神の務めには用いられないと思われている者をお用いになります。わたしたちがよく知る迫害者であった使徒パウロもその一人です。

 キリストの十字架は、神とわたしたちを和解させ、あらゆる隔ての中垣を取り除くよき知らせです。神のひとり子が人となって、救い主となってくださった奇跡の現れです。このキリストの十字架によらず救われた人は、一人もいません。わたしたち一人ひとりの信仰の中心には、この十字架のイエス キリストがおられるのです。それ故、わたしたちの信仰は十字架のイエス キリストを仰ぎ見ることが必要なのです。

 この受難週の1週間は、わたしたちの救いのために十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ見、思い巡らす大切な時なのです。キリストの十字架によって、自分自身の救いを知り、イエス キリストがわたしの救い主であることを確信し、喜び感謝する時なのです。

 

全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/04/03/191620

 

 

説教後の長老の祈りも、私の胸を打った。

 

以下、 

天にいらっしゃいます父なる神さま、私たちはいくら思いを尽くして、神さまを愛し隣人を愛そうとしても、果たすことの出来ない大きく深い罪を負っている者です。このような私たちのために、何ら罪のないイエス様を十字架につけてまでも、私たちを罪から贖い出し、救いの中に入れて頂いたことを思います。

私たちはどこまでも罪深いものですが、イエス様の救いの業に依り頼んで日々を歩んで行くことの出来ますようにお守りください。

この整いません貧しき祈りを、とうとき主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。

アーメン。

 

 

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