風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

信仰義認の根拠となる聖書箇所は?

信仰によって義とされるという「信仰義認」について、この「信仰」は、「キリストの信仰」を指すと聞いてきた。キリストの父なる神への「信仰」によって私たちが「義」とされるのだ、と。

また、「義」とは、神との関係が正しいものとされるということだ、とも。

十字架の死に至るまで父なる神に従われた「キリストの信仰」によって、私たちは義とされ、神との関係において神の子と呼ばれるようになったのである。

 

この根拠となる聖書箇所は、色々あるかと思うが、私の中では次の二箇所が思い浮かぶ。

 

同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。 (ヘブル5:5~10)

 

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2:6~11)

 

 

myrtus77.hatenablog.com

実は、この箇所は、前に信仰義認となる聖書箇所について調べていて見つけたところなのだが、「信仰義認」の根拠となるというわりに訳がどれも腐っていると思って取り上げなかったのだった。

 

 

 

蕾だったのが