風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「喜びのゆえに」(ヘブライ人への手紙12:2 聖書協会共同訳)

今日の礼拝は長老のお説教によって守られた。

引退教師の先生方や長老達によって、なんと豊かに礼拝が守られていることか、と感謝に堪えない。

 

今日のお説教から以下に抜粋引用させて頂く。

  2節に「このイエスは御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた」と主のお苦しみが強調されています。ですから、うっかりすると主の十字架のお苦しみに比べたら、私たちの人生で会う苦しみは軽いものだ、耐えられない筈がないのではないかと受け止めかねません。しかし、それは信仰ではありません比較を絶した主のお苦しみを私たちの経験のレベルまで引き下げることでしかありません。

 

 ところで2節の「イエスは御自分の前にある喜びを捨て」というところは以前礼拝で読んでいた口語訳聖書では「喜びを捨て」ではなく「喜びのゆえに」となっていました。

 また、聖書協会共同訳では「喜びのゆえに」という訳に戻されています。文法的にはいずれとも読めるのですが、聖書は全体から部分の意味を理解するのが鉄則です。私は、「喜びのゆえに」と読むのが正しいのだと思います。筆者は、このすぐ前に、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめよと言っています。主イエスのご生涯の一点を見つめるのではなく、救い主としてのご生涯の全体から十字架のお苦しみを見るようにと言っています。 

(略)

 ヨハネは十字架を前にした主イエスのお心と残されたことばをていねいに書き残してくれました。13章から17章にわたる長い文章です。その中に喜びということばが出てきますから読んでみましょう。15章の9節から12節までを読みます。

(略)

 わたしの喜びと言われる喜びは愛から溢れ出るよろこびであったことがわかります。(略)

 また、主イエスには人に対する深い愛があり、救いのご計画が進められ、人の救いが完成したときの人の与かる救いのよろこびを喜びとされたのです。目の前に迫っている死をまるで無きもののごとく喜びに溢れ、よろこびを以って死に打ち勝ってくださいました。

(「主イエスを見つめて」(ヘブライ人への手紙12:1~3)長老説教 より抜粋)

 

訳の違いから福音を導き出した素晴らしいお説教でしたが、冒頭の「比較を絶した主のお苦しみを私たちの経験のレベルまで引き下げる」「それは信仰ではありません」と言い切ったところにも心を動かされた。

私たちは、「主の十字架のお苦しみに比べたら、私たちの人生で会う苦しみは軽いものだ、耐えられない筈がないのではないか」などと、まるで信仰の言葉ででもあるかのように思い違いをして不信仰な言葉を口にしてしまったりするものである。

 

ただひたすら、信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめて歩みたい、と思わされた。