子どもの頃から死を恐れていながら、「永遠の命」等と言われてもピンと来なくて、有り難い気もしなかった。けれど、長年説教を聴き続けてきて、「永遠の命」が親しく感じられるような気がしてきた。
「永遠の生命」
2021年11月21日(日) 主日礼拝【逝去者記念礼拝】
聖書箇所:ダニエル書 12章1節〜3節
(略)
幻という言葉は、日本語では、実際には無いのに、あるように見えるものや、たちまち消えてしまう、はかないものという意味で使われます。
しかし、聖書では意味が異なります。幻は、神の御業を示すものであり、未来への希望です。神は未来への希望として、永遠の生命を示されました。
(略)
だから神は最後にダニエルに、こう言われたのです。今日はお読みしていませんが、ダニエル書の一番最後の、12章13節のところ、旧約聖書の1402頁、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 とあります。
この箇所は、口語訳聖書ではこう記されています「終わりまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終わりに立って、あなたの分を受けるでしょう」
当時は、まだ、この最後に与えられる「あなたの分」が何を意味するのか、人々は知りませんでした。しかし、今、私たちは、一人ひとりの分として、神のひとり子イエス キリストご自身が与えられていることを聖書から知らされています。
イエス キリストが最後の晩餐で、弟子たちに与えたように、聖晩餐において、私たち一人ひとりの前にキリストご自身、キリストの命を表すパンとぶどう酒の杯が差し出されるのです。そして主ご自身が「取って食べよ」「この杯から飲みなさい」と言って、ご自身の命をわたしたち一人ひとりに差し出してくださることを、聖晩餐によって覚え続けるのです。
(略)
神が召されるとき、あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、「あなたの分」の、神のひとり子イエス キリストを受けるのです。キリストの命に与るのです。そのことによって、神が共に生きたいと願っていてくださることを、喜ぶことができるのです。
私たちには、決して失われることがなく、奪い去られることのない喜び、希望が与えられています。それを共に確認し、主から慰めと希望を受け、新たな力を得て、また歩み出していきたいと願っています。
全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/11/21/195755
前の教会では口語訳聖書を使っていたので、夫はこの説教も口語訳聖書に従って語ったのだった。
こちらでは新共同訳を使用しているので、代読して下さった長老は新共同訳に置き換えて構成し直して下さっている。しかしこの説教では口語訳でなければならない内容になっていたので、このように補って代読して下さった。
長老の皆さん丁寧に読み込んで手間をかけて下さっている。感謝!
そして今年も、逝去者記念礼拝を行うことが出来た。