風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「最後の晩餐を用意される主」(2021年9月5日(日)主日礼拝より)

「最後の晩餐を用意される主」

 

2021年9月5日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章7節〜13節

 

 ルカによる福音書も、最後の晩餐の場面へとやってきました。

 

(略)

 

 イエスは、この過越の食事の準備を密かに進めておられました。なぜなら、「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」と6節にあるからです。過越の食事は、みんな家族で守るもので、イエスの周りに群衆などいない絶好の機会です。しかしイエスは、十字架の前のこの過越の食事は、弟子たちと守るために準備をしておられました。なぜなら、この過越の食事こそイエスの十字架の意味を表すものだったからです。

 

 弟子たちは、9章22節、43節、18章31節でイエスがご自分の死について語られてもそれを理解できませんでした。理解したくない内容だったと思います。

 この後、イエスはユダの裏切りによって、逮捕され、十字架につけられます。しかしそれは、運悪くそうなったのでも、力及ばずそうなったのでもありません。初めからイエスは十字架を負うためにこの世に来られたのです。

 

 過越の食事のために屠られる小羊は、イエス キリストを指し示していたのです。

 

 神の裁きが、罪人たちを過ぎ越していくために、イエス キリストがわたしたちの罪を負って、わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって十字架で裁かれたのです。

 神が遣わされた救い主イエス キリストは、わたしたちにご自分の命を与えるために、来られたのです。

 

 これはイエスが弟子たちと守る最後の晩餐です。しかし、この最後の晩餐から教会の聖晩餐は始まりました。その意味では、これは最初の晩餐でもあります。

 聖晩餐を守るたびに、わたしたちは主の十字架を思い起こします。旧約の神の言葉が、イエス キリストにおいて成就したことを思います。神の言葉は真実であったことを思います。

 そして聖晩餐は、今に至るまで2,000年教会で守られてきました。今この時も、わたしたちはイエス キリストの十字架の恵みの中に置かれています。

 さらに聖晩餐は、わたしたちが未来において代々の聖徒たちと共に神の国で主の食卓に与ることを指し示しているのです。

 聖晩餐は、わたしたち人類の過去も現在も未来も、神の救いの御業の中に置かれていることを示し続けています。

 時代が変わり、社会が変わり、生活が変わり、人々の考え方が変わっても、神の御心も御業も真実で変わらないことを聖晩餐は証しし続けています。

 

 最後の晩餐が、イエスご自身によって弟子たちも知らぬ間に用意されたように、わたしたちが求めもせず、用意もしていなかった救いの御業を、神ご自身が用意し、備えていてくださったのです。

 自らの命を献げるために来られたイエスが、弟子たちと最後の晩餐を守るために準備し用意されたように、わたしたちが聖晩餐に与り、救いに入れられるように、今も主はわたしたちのために御業をなしていてくださいます。

 何が変わろうと「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」とヘブライ人への手紙13章8節にあるように、わたしたちの真実な救い主であります。

 

全文は以下から↓

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/09/05/181850

 

祈ります

天の父なる神様

あなたはわたしたちが求めもせず、用意もしていなかった救いの御業を用意してくださいます。 世の中が変わっても、神の御心も御業も真実で変わりません。 何が変わろうとイエス・キリストはまた永遠に変わることのない方です、と信じて進んでいきます。

この祈りを主イエスキリストの名によって御前に捧げます。アーメン

 

長老の皆さんは夫の説教を良く読み込んで、説教後のお祈りもいつも良いお祈りをして下さっている。

この日の司式を担当された長老の説教前のお祈りが、小さな短い説教のようだった。

本当に感謝!