風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ・・」ー待降節第3主日礼拝説教(イザヤ書52章1〜12節)

 きょうは待降節第3主日です。

 7節に「よきおとずれ」という言葉が出てきます。「よきおとずれ」とは「よい知らせ」「福音」のことです。新約には「神の福音」「キリストの福音」という言葉が出てきます。ここでも「よきおとずれ」は、神がもたらしてくださる「よい知らせ」「福音」として語られています。
 「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は、山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」(7節)

 イザヤ書は預言書ですから、きょう読んだ言葉も預言です。預言だということは、まだ実現していない内容だということです。つまり、今はまだ喜べるような状況ではないということです。
 まだ喜べるような状況ではないのに、「捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ」(2節)エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え」(9節)と呼びかけます。そして「地のすべての果は、われわれの神の救を見る」(10節)と語ります。
 聖書は「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙11:1)と言っています。イエスも復活を信じられなかったトマスに対して「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書20:29)と言われました。そして、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15)と、「神の国が来た」ではなく神の国は近づいた」ー「まだ来ていない、明らかではない、しかし近づいた」と語られました。

 神の民は、神は真実であり、神の言葉も真実であることを信じて生きるために召されました。神はご自身を証しする手段として、神の民が神を信じて生きるという仕方を選ばれたのです。

 ここには2度「あがなう」という言葉が出てきます(3, 9節)。「あがなう」というのは、代価を支払って自分のものにすることを言います。当時であれば、奴隷を代価を支払って自分のものにすることを「あがなう」と言いました。「主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれた」(9節)と告げられています。主ご自身が、ご自分の民をあがなわれた。つまり、主が代価を支払って、わたしたちをご自分のものとしてくださったのです。
 わたしたちは、これがイエス キリストを指し示していることを知っています。神がご自身のひとり子をわたしたちの救いのためにあがないとしてくださいました。イエスご自身が言っています。「人の子がきたのも、・・多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ福音書10:45)
 神の民は「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」ました。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされ」たのです(ローマ人への手紙3:24~25)「わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けて」いるのです(コロサイ人への手紙1:14)

 重ねて申し上げますが、罪によって囚われていたわたしたちを救い出すために、神が代価を支払われたのです。払う必要のない方が、ひとり子の命までかけて救ってくださったのです。
 わたしたちが罪に囚われたのは、わたしたちが神の言葉に背き、罪を犯したからです。神にわたしたちの代価を払う責任はありません。けれど、わたしたちを罪から救い出すために、神は囚われから解放する代価としてひとり子を世にお遣わしくださったのです。
 そして、その代価は十字架において支払われました。その様は、5節後半から語られているとおりです。「つかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」(5, 6節)。イエスは朝9時から午後3時まで、十字架でさらし者とされました。「つかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られ」ました。けれど、イエスが十字架を負い抜いてくださったので、わたしたちは「この言葉を語る者が」神ご自身であったことを知ったのです。
 そして十字架の主を仰ぎ見るとき、救い主が罪のただ中に来てくださり、救いを成し遂げてくださったことを知るのです。「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ福音書1:23, イザヤ書7:14)。イエス キリストの救いの御業は、まさに6節の「わたしはここにおる」という御言葉の成就、預言が出来事となって実現したのです。

 「主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る」(10節)

 救い出された民は、約束の地を目指して旅立ちます。「シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ」(1節)「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ」(12節)
 主の恵みに、そして主ご自身に包まれ守られて、神の民は歩み続けます。

 もう一度言います。これは預言です。この言葉を聞いたとき、この言葉は出来事になっていませんでした。なる気配もありませんでした。神の民は、神の真実を証しするために、見ずして信じること、神を信じて生きることを求められるのです。
 神の民は、一人ひとり神の証し人です。わたしたちは「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者」(7節)、神の麗しさに与る者たちなのです。

 わたしたちは見ずして信じる者。神の真実を証しする者。よきおとずれを伝える者。それを確認する時、それが待降節です。

ハレルヤ!


一昨日の日曜、夫は体調不良で礼拝には出ず、長老に、出来上がっていた説教原稿を読み上げていただいた。
原稿には、自分のブログにアップするために最後に「ハレルヤ」をつけていたらしいのだが、長老は躊躇いなく(少なくとも私の目にはそう見えた)、「ハレルヤ」まで高らかに読み上げてくださった。
そのことを夫に報告すると、「僕が口にするより、きっと様になっていただろう。○○さんは、そういう信仰を持っている人だ」と言ったので、うちの夫は意外と人の中身を見ていると思ったことだった。
こういった本物の主への信仰を持った者達が[語る者]を招聘し、長い年月教会を立て上げてきたのだ。