風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「キリストによる神の家族」(マルコによる福音書3:31~35)

「キリストによる神の家族」

  2023年5月21日(日) 聖霊降臨節前第1主日

聖書箇所:マルコによる福音書  3章31節~35節

 

 イエスについての評判、様々なうわさは、イエスの家族の許にも届きました。身内の人たちはとても心配になり,イエスのことを聞いて取り押さえに来ました。3章21節には「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。

 31節、イエスの母と兄弟たちがイエスのところにやって来ました。ここには、父ヨセフは、登場していません。4つの福音書を見ましても、ヨセフが登場するのはイエスの誕生の物語と12歳でエルサレムに行ったときの話だけです。そのため、ヨセフは既に亡くなっていたのではないか、と考えられてきました。そうだとすれば、イエスは長男として、ナザレにとどまって、母や兄弟姉妹の面倒を見る義務を負っていたわけです。それがある時、洗礼者ヨハネのところに行った後は、家に戻らず、救い主としての活動を始めたのです。そして、家族の耳にもいろんなうわさが届くようになりました。中でも宗教的指導者の立場にあるファリサイ派の人々の話を聞くと、イエスは悪霊に支配されてとんでもないことを教えている、というような話で、これは何としてでも家に連れて帰らなければと、家族は思ったのです。

 大勢の人が、イエスの周りに座っていました。そこでイエスの母と兄弟たちは外側に立ち、人をやってイエスを呼ばせました。大勢の人がイエスを取り囲んでいますから、「外」というのは、家の「外」というよりも、イエスを取り囲む人々の外側という意味でしょう。おそらくイエスからも母や兄弟姉妹の姿を見ることができたのでしょう。イエスに家族が来ていると伝えた者が、家族のほうを指して「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とイエスに知らせました。

 聖書には、母や兄弟姉妹が、なぜ、自分たちがイエスの傍に近づいて話すのではなくて、人にお願いして、呼ばせたのか、その理由は、記されていません。

 すると、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えられました。聞いた者が「何を言っているんだ、この人は」と思うような答えです。イエスは周りに座っている人々を見回して、こう言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 家族は、社会を形作る基本的なものです。イエスはその家族を血のつながりではなく、神に従い、御心を行うという信仰によって捉えました。血縁という肉のつながりよりも、信仰という、霊のつながりに目を向けるのです。それは、神の御心を行うという父なる神との結びつきを中心として形成されるものです。天に新たに父を持つ者が等しく神の子とされ、神の家族とされるのです。

 そもそも神の民イスラエルというは、そのような存在でした。イスラエルの祖、アブラハムは神の召しを受けて、住み慣れた土地を離れ、家族・親族を置いて神に従い旅立ちました。そして、世界を創造された唯一の真の神を信じる者はイスラエルの一員として加わることができたのです。神に従い、神によって結び合わされる、それが神の民イスラエルでした。神の民に与えられた戒め、十戒の中に「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)と教えられています。神に従うことは,決して、親を軽んじることではありません。

 親や家族を大事にすることも、神の戒めの中で、神の御心に従うことの中で、位置づけられてくるのです。

 

 わたしたちの生きているこの時代は、家族や血のつながりということをいろいろと考えさせられる時代です。わたしたちは、家族が次第次第に、崩壊していく場面を見てきています。

 家庭内暴力ということが言われ始めたのは、もう随分前のことになります。コンビニエンスストア・チルドレンと呼ばれる子どもたちも現れてきました。子どもはお金を渡されコンビニエンスストアで何かを買って食べるようにと言われ,家族で食卓を囲むこともできない状態が生まれてきました。そこまではいかなくてもこの世の忙しさの中で、家族の会話が成り立たない状況が以前から生じ,今も続いています。昨今は、子どもに対する虐待も社会問題となっています。また、世界の中で、考えるならば,民族間の激しい対立、血のつながりによる壁の問題があります。

 わたしたちは生まれながら抱えている罪の中に留まっているかぎり、つながりが崩れていく、あるいは、つながりが対立と争いを産んでしまう、この世の悲しみから逃れることはできないのです。わたしたちのつながり、結びつきも、救われて、また、新たにされることが必要なのです。

 新しいつながりの中心は「神の御心を行う」ことであるとイエスは言われましたが、後にイエスは神の御心を行うために十字架を前にしてこう祈られました。マルコによる福音書14章の16節では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。そして十字架の上でこう叫ばれました。マルコ15章の34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」。

 神の御子であるイエス キリストが、父なる神に捨てられたのです。それはわたしたちの罪、そして全世界の罪を償うためになされたものです(1ヨハネ2:2)。わたしたちを救うために,神は罪とは何の関わりもないご自身の独り子を罪となさいました。ガラテヤの信徒への手紙3章13節に、「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくださいました」とあります。罪から救うとは、共に生きることです。罪は、神に背を向けさせ、家族を崩壊させ、そして民族を争わせ、共に生きることを破壊していきます。その罪からわたしたちを救いだすために、父なる神は、御子イエスを捨て、そして、父であることを失い、御子は、父に捨てられ、子であることを断たれてしまわれました。エスは、痛みや悲しみを自らが背負って、罪に苦しむわたしたちの兄弟となられ、そして、神は、わたしたちの父となってくださったのです。

 新しい親子・兄弟の関係が、神の御心により、キリストの十字架によって、造り出されたのです。

 イエス キリストを信じ、神に従い、神の御心を行う者は、誰であれ、神の家族です。

 遠く外側に立って見ているのではなく、血のつながりや生まれながらのものによるのではなく、イエスの言葉を聴いて、救い主キリストにすべてを委ね、従うことを決断するとき、わたしたちの弱さや愚かさに関わらず、罪深さにも関わらず、神によって、結び合わされ、神の家族とされ、恵みを分かち合って歩むことができるのです。

 最後に、この恵みを教えるエフェソの信徒への手紙の言葉をお読みします。エフェソの信徒への手紙2章14節から22節まで、新約聖書の354ページ、開けてみたいと思います。

「14実に,キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して,両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し,主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて,あなたがたも共に建てられ,霊の働きによって神の住まいとなるのです。

祈ります。

 

 

今日代読して頂いた中にコンビニエンスストア・チルドレン」という呼び名が出てくるが、この説教を語った頃、身近にそういう子どもがいたのだった。

親からお金を貰って弟や妹の世話をしながら子どもだけで生活をしているという子どもが、読み聞かせに行っていた小学校にいた。

絵本を読み終わって階段を下りていくと、遅刻した子どもが上がってくる。「今日の本、どういうのだった?」と尋ねるので、読み聞かせた絵本を見せる。弟や妹の世話をしているので、遅刻してくるのだ。次の年、その子は引っ越していなくなった。

 

 

 

水曜日の薔薇をそのまま使って。

 

世界は悲しいが、薔薇は美しい。