「起きよ、光を放て」(イザヤ書60:1~9)
預言者イザヤは、バビロン捕囚から解放されたエルサレムの民に向かって語ります。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。
彼らの目の前にあるのは、復興が始まったばかりの町並みです。神殿も破壊されたままです。その民に向かって、神はお語りになります。
2節、「見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」
目に映る現実は、闇に覆われています。光を見出すことができません。うずくまりたくなります。途方に暮れるような現実です。
しかし神は語られます。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。・・あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」
主ご自身が光なのです。そして、神の民は、光である神ご自身の栄光を受けて、光を放つのです。イエス キリストは、ヨハネによる福音書8章12節で言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。
聖書はイエス キリストを指して、ヨハネ福音書1章9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と語ります。
闇が地を覆い、明日への希望が見えない、そのただ中に、イエス キリストが「すべての人を照すまことの光」として世に来られました。わたしたちは、世の光であるキリストに照らされるとき、「命の光」を持って歩くことができるのです。
このイザヤ書60章の冒頭の神の言葉は、神の救いの御業であるイエス キリストと出会っていくときに実現するのです。
「栄光」という言葉が1節と2節に続けて出てきます。聖書において「栄光」とは、神がわたしたちの救いの神であることが、現れることを言います。そして、神が救いの神であることは、イエス キリストの十字架において明らかにされました。2節の「主の栄光があなたの上に現れる」が、新約聖書ヨハネによる福音書の1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と告げます。
「恵みと真理に満ちていた」。
ひとり子にとって、この「恵みと真理に満ちた栄光」とは、十字架に他なりません。
この世では優れた業績に対して「栄光」という言葉を使います。本人の努力、本人の成果を誉め讃えて、誇りとすることのできる成果に対して「栄光」という言葉を使います。
わたしたちは信仰によって、キリストの十字架が、他の何ものとも比べることのできない神の栄光に満ちた御業であることを知っています。しかしこれは、この世の業績、成果のように、「わたしもあんな風になりたい」と憧れるレベルのものでないことも知っています。
イエス キリストは、わたしたちに代わってすべての罪を負うために世に来られました。陰府にまで至るために、十字架を負われました。誰もキリストに憧れて「わたしも十字架を負いたい」などとは言いません。人間の考える栄光と、神の栄光とは全く違うのです。
神は言われます。イザヤ書55章8節、先週学んだ御言葉です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」。
神は、ご自身の栄光を、わたしたちを救うことにおいて現されました。
わたしたちの上に現れる栄光、わたしたちに臨む光、それは十字架の栄光であり、十字架の光です。わたしたちは、キリストの十字架によって、神がわたしたちの救いの神であることを知ったのです。
そして、すべての人が必要としている救いこそ、イエス キリストの十字架です。わたしたちを照らす十字架の光、十字架の栄光を、わたしたちが証しするとき、3節、4節に記されているように「国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」のです。「みな集い、あなたのもとに来る」(4節)のです。
これらは、この預言を聞いたエルサレムの民の実際の目には見えていません。彼らの実際の目に映るのは、がれきだらけの町並みです。誰もこんなところに喜んで集まってきません。
そんな状況のただ中で、神はこの預言を語らせました。今の教会を取り巻く状況も同じかもしれません。教会は、高齢化し、若者は少なく、牧師も足りません。肉の目では、光は見えず、未来に希望を描きにくい状況です。「主の栄光があなたの上に現れる」と言われても、また、「彼らはみな集まってあなたに来る」と言われても、信じられない現実が広がっています。
しかし、神はひとり子によって約束を成就されました。神の民は、キリストの十字架を仰ぎつつ、まだ明らかになっていない救いの御業を、信仰によって望み見るのです。まさに、ヘブライ人の手紙11書1節に記されている通り「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
神の民は、暗きが地を覆い、闇が民を覆っているただ中で、キリストの十字架を証しし、十字架の光を放つのです。
聖書は告げます。ローマ人への手紙10章14節から17節、開けてみたいと思います。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
15:遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』」と書いてあるとおりです。16:しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17:実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
だから、神は命じられるのです。「起きよ、光を放て」(1節)と。
わたしたちの今の状況も、暗きが地を覆い、闇が民を覆っています。「どうやったら光を放てるのか」と、神に訴えずにはいられません。
しかし、キリストの十字架の栄光は、あなたの上にのぼり、あなたの上に現れています。
そして9節にあるように、主が私たちに輝きを与えてくださいます。わたしたちは自分で光り輝こうと努力するのではありません。光である主が、わたしたちの上にのぼり現れてくださいます。光である主が、わたしたちに臨んで、輝かせてくださいます。
ですから、わたしたちにとって大事なのは「わたしはキリストの十字架によって救われた」と、心新たに確認して、信じることなのです。
キリストは罪の闇のただ中に来られました。この世にはキリストを迎える準備も余地もありませんでした。しかしキリストは、救い主として世に来てくださいました。そして、キリストは十字架を負ってくださり、命を献げてくださいました。キリストは決して消えることのない世の光となってくださいました。だから、わたしは「やみのうちを歩くことがなく、命の光を」持っているのです。わたしたちは、そのことを今、神の言葉から、イエス キリストから確認するのです。
主は「わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。」と7節で言われます。それ故、教会は、十字架を自らの「しるし」として掲げるのです。この教会にも、十字架が入った看板が掲げられています。これは単なる教会の目印ではありません。神がこの教会において、ご自身の栄光を現してくださるのです。イエス キリストの十字架の光で、わたしたちを照り輝かせてくださる「しるし」、それが十字架なのです。
今、キリストの十字架を思い浮かべてください。キリストの十字架こそ、わたしたちを照らす光、わたしたちを輝かす主の栄光です。
今、目に映るものは暗いでしょうか? 希望の光は見えないでしょうか?
しかし、主は言われます。「あなたの光が臨む。あなたの栄光があなたの上に現れる。わたしがあなたを輝かす」。
この世では明らかではない神の救いの御業、それを十字架の光に照らされることによって、わたしたちは見るのです。
この主の栄光が現れるのを信じて待つ、それが待降節です。
神は言われます。「起きよ、光を放て。主の栄光があなたの上に輝く」と。