風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「永遠の祭司」(ヘブライ人への手紙7:23~25)

昨日、9月24日の礼拝説教を以下に全文掲載。

 

「永遠の祭司」(ヘブライ人への手紙7:23~25)

 取り上げた聖書の箇所は、主イエス・キリストがどういう意味でわたしたちの救い主であるかについて語っている。この後行われる聖餐式に感謝して与ることができるよう、このところから学びたい。

 ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストのご人格とみわざについて旧約聖書を参照しつつ最も重要な点を明らかにしている。旧約聖書を参照するというのは、著者の単なる思いつきではない。確かな根拠のあることである。主イエスご自身がこう言っておられる。「聖書は、わたしについて証しをするものだ」と。主イエスが、聖書と言われるとき、新約聖書はまだ存在していなかったから旧約聖書のことである。

 旧約聖書に記されているイスラエルの歴史は、人類の救い主であるイエス・キリストを迎える準備の歴史であった。その歴史の中で大切ないくつかのことが挙げられるが、その一つが神殿の建てられたことである。そしてその中で祭司が大切な役割を果たして礼拝が守られてきたことである。この祭司が置かれたのは、やがて出現する救い主を正しく理解するためであった。

 

Ⅰ 旧約の祭司とイエス・キリストの相違

 23節と24節において、旧約聖書の時代の祭司とイエス・キリストの場合との相違が語られている。旧約時代の祭司は必ず死んでしまうので次々と交替しなければならなかった。レビ族の中から任命され、前任者の死んだ後を引き継いだわけである。ユダヤの歴史家ヨセファスは初代のアロンから数えて、紀元70年の神殿崩壊まで交替した祭司の数をあげている。1300年以上の歴史であるからその数は膨大である。

 一方、主イエス・キリストは、十字架の死をとげ、復活して永遠に生きておられるのでその祭司としての働きは、変わりなく続いている。従って後継者は必要ない。先ずこの点において、旧約時代の祭司と決定的に違っていると聖書は言う。

 

Ⅱ イエス・キリストの執り成し

 それでは、今も生きて祭司として働いておられるのであるが、その働きとは何か。25節に記されている執り成しである。旧約時代、祭司は安息日ごとに礼拝で傷のない小羊をほふった。小羊の肉を裂き、血を流し、祭壇に注いで執り成し、つまり罪ある民が聖なる神のみ前に立つことができるようにした。

 それに対して、主イエス・キリストは、ご自分の肉を十字架上で裂き、血を流して、わたしたち罪人の罪を贖い、聖なるみ前に立つに相応しい者にしてくださった。約2000年前に、イエス・キリストは復活して天に上げられて以来、変わることなく、ただ一回限りの十字架上の死によって、罪人であるわたしたちを救い、執り成しておられるのである。

 このイエス・キリストの執り成しを力あるものにしているのがキリストの復活の御体(みからだ)である。イエス・キリストは、復活された後、40日間にわたって弟子たちの前に現れ給うた。そのとき、復活されたことを疑う者がいた。弟子のトマスである。イエス・キリストは、その疑いを取り除くために復活の御体にある釘の跡と槍の跡とを彼に示された。このように言うと不思議に思うかも知れない。主イエスは、生き返ったのでなく復活されたからである。復活されたからには、その御体は地上の御体と違っていた。完全に閉じられた部屋の中に入って行くことができた。にもかかわらず、傷跡だけはそのまま残された。なぜ、傷跡だけは残されなければならなかったのか。イエス・キリストこそ、罪を繰り返すわたしたちの永遠の祭司だからである。決して消えることのない傷跡こそ執り成しの力なのである。

 

Ⅲ 神に近づくため

 次に、聖書は執り成してくださるキリストを通して神に近づくことができると言っている。この「近づく」という言い方は旧約聖書の歴史の中でつちかわれて来たもので、その典型的例はレビ記9:5に現れている。「進み出て」と訳されている語は「近づいて」と同じ語で口語訳では「近づいて」と確かに訳されている。「神に近づく」とは礼拝するということである。「神に近づく」というと個人的、内面的なことのように思われがちである。また、一人で瞑想にふけることと考えられがちであるが、実は礼拝するという具体的行為である。これは、旧約聖書の昔も今も変わりない。

 また、「神に近づく」ということには、神のみ前における祝宴がともなった。申命記12:7、12、18節 これは祝いの宴であるが、わたしたちの聖餐式と見てよいであろう。共に食事をする。これは、わたしたち人間同士でも食事を一緒にするということは、最も親しい関係になったしるしではないか。主イエスも、神の国をよく祝宴に例えておられる。

 

Ⅳ 完全に救う

 聖書は、この箇所の終わりでイエス・キリストはわたしたちを完全に救うことがおできなる方だと言っている。この「完全」という言葉には二つの意味がある。英語の聖書では“utmost”という単語を当てている。「最大限に」とか「一番はじにまで」、「極限にまで」という意味である。「完全に救う」の一つの意味は、どんなに罪が大きくても、重くてもこの救いの及ぶ範囲を超えることはないということである。使徒パウロが、手紙の中で「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)といっているのと同じである。どんな罪深い人間の罪であっても、イエス・キリストの赦しはそれを凌駕している。だから決して絶望することはない。復活のイエス・キリストは、今も疑うトマスに言われたように、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」と言ってくださる。二つ目の意味は、イエス・キリストによる十字架の救いは究極的であって、決してやりなおされることはないということである。ということは、わたしたちの人生において降りかかってくるいろいろの苦難や不幸は、刑罰ではない。もし刑罰だとするとキリストの十字架上の苦しみが不十分であったことになる。「だれがキリストの愛からわたしを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と。イエス・キリストの十字架の救いは完全であり、究極的である。これからの人生において心ならずも犯してしまうであろう、わたしたちのどんな失敗も罪もキリストの愛と恵みがおおってくださる。

 

実際の礼拝では、お説教の最後のところで、「人生に起こってくる苦難は刑罰ではない」ということ、「キリストの十字架の救いは完全であり、わたしたちのどんな失敗も罪もキリストの愛と恵みがおおってくださる」ということを繰り返し語っておられた。

 

キリストが十字架上で受けられた御傷を見上げて、苦しみの中でこそ、主が共に居てくださるということを胸に刻みたいと思った。